『月の満ち欠け』佐藤正午(書評)
【6月6日 記】 佐藤正午は、それほど多く読んではいないが、好きな作家の一人だ。この小説も、直木賞を獲る前から気になっていたのだが、近年僕は紙の本を読まないので、Kindle版が出るのを待っていたら、こんなに遅れてしまった。
登場人物と時代が錯綜するので、読んでいてこんがらがってくる小説である(僕のように物覚えの悪い読者は、冗談抜きで、メモを取りながら読むべきなのかもしれない)。
読み始めて最初に出てくる小山内という初老の男が主人公かと思ったら、そうではなくて、高田馬場のビデオショップに務める三角という学生の恋愛物語かと思ったら、そうでもなくて、なにやら不思議な話のようだ。
ひとことで言ってしまうと、前世の記憶を持って何度も生まれ変わる女性の話。前世どころか、その前の世もそのまた前の世の記憶も全部ある。そして、彼女が早逝した場合は、同じ男性の前に違う女性となって何度も立ち現れることになる。
その辺りの謎が少しずつ語られるために、読者はもう途中でやめることはできなくなり、いや、それどころか、その先が知りたくて更にスピードを上げて読み続けることになる。
佐藤正午は決してサスペンスの作家ではないが、僕は suspense という言葉はこの作家のためにあるのではないかと思う。
suspense は suspend という動詞の名詞形である。suspend は「一時的に中止する」「宙吊りにする」という意味である。我々は佐藤正午の物語の中でまさに宙吊りにされるのである。足場が固まらないので、たまらなく不安になる。物語の先が見えない。
我々は宙吊りのままどんどん引っ張られてしまう。
そして、彼が描く日常生活の中のちょっとしたズレや違和感。──この作家はデビュー以来ずっとこういう小さなズレや違和感を描いてきたのではないだろうか。
この小説においても、「命」という漢字はどうかくのか分からなくなり、辞書で調べてじっと見ているうちに「命」ってほんとにこんな字だったっけ?と思ってしまうとか、50音の順番でどうしてもマ行のほうがハ行より前だという気がしてならないとか、そういう小さなエピソードがとても意味深に配置されている。
「月の満ち欠け」というタイトルも非常に巧い。主人公の女性の名前に因んだ「瑠璃も玻璃も照らせば光る」という諺の絡め方も絶妙である。
そして、「え、そこで終わってしまうのか?」という終わり方も見事としか言いようがない。この人は実はこうで、これは実はこういうわけでという説明をきっちりつけないまま作者はページを閉じてしまう。
そう、そんな風にしか人の生は捉えられないのである。「ひょっとしたら」というようなことを時々心に浮かべながら我々は生きているのである。そして、日常生活のほんの小さな綻びに気づいてしまうと、我々は次々と信じられないような不思議に気がつき始めるのかもしれない。
そう、こういう形でしかこの小説は終われないはずだ。なにしろ何度死んでも同じ記憶を持った別の人間として彼女は生まれ変わるのだから。
──終わりはないのである。
そんな思いを込めて、なのか、いや、どんな思いも込めずに、なのか判らないが、こういう形でこの話の続きは我々に引き渡され、我々の想像力に委ねられてしまう。
我々はこの小説の続きが辿るかもしれない広大な可能性の中で、やっぱり宙吊りにされるのである。
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