さとみの変貌
【4月28日 記】 2007年4月に、当時やっていた自分のホームページに『さとみ』という文章を書きました。石原さとみではありません。形容詞や形容動詞につく接尾語「さ」と「み」の比較について書いたものです。
まずは、やや長くなりますが、この文章に少し手を入れてここに再掲したいと思います。
********** 以下再掲
さとみ
私が加入しているメーリングリストにこんな投稿がありました。
「厚い」→「厚さ/厚み」っていうふうに、形容詞から「さ」と「み」の2種類の名詞ができるんだけれど、「速い」→「速さ/速み」とはならない。
- できるのは「甘い」「苦い」「暖かい」「高い」?
- できないのは「薄い」「低い」
何故できるものとできないものがあるのでしょうか?
それに対して私は以下の趣旨でコメントしました。私が投稿する前に「み」=「味」なんだろうかという疑問が出されたり、さらに「『高み』なんて言葉あるか?」という指摘もあったりしたので、その辺も踏まえたコメントになっています。
「み」は形容詞・形容動詞の語幹に付きます。
「味」は多分当て字でしょう。ただし、辞書によると「甘味」「苦味」「人間味」などは味や趣きを表す言葉なので、この場合は「味」を使うのが正解なのだそうです。そういう意味では「+み」と「+味」は分けて考える必要があるのかもしれません。
じゃあ「新鮮み」とか「真剣み」とか「面白み」などの場合は「み」なのか「味」なのか、この辺りは大変判別がつきにくいですね。私にもよく判りません。
その他にも、まず区別しなければならないのは、「厚み」の「み」と「高み」の「み」は違うということ。後者は「…な所」という意味です。
「弱み」は弱いところ=弱点、「高み」であれば高いところ、「深み(にはまる)」であれば深いところという意味で(ただし、「深みがある」という表現の場合は別。これは後述)、これを「さ」と比較するのは無理があるので、一旦ここでは除外します。
あと古語では「~を…み」で「~が…なので」という意味を表す用法があります。崇徳院の有名な歌に「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」(川の瀬の流れが早いので…)というのがありますが、もちろんこれは別の用法ですので、これもここでは除外します。
さて、その上で両者を比較すると、「+さ」があくまで客観的な判断基準であるのに対して、「+み」は非常に主観的な表現であると言えます。
- 「+さ」=客観的
- 「+み」=主観的
「親しさ」と「親しみ」を比べてみればよく解ると思います。
だから主観的・感情的な要素が入る余地が大きい形容詞・形容動詞には「+み」が成立しやすいとも言えます。
速さには大体基準があって、自動車なら時速 20km は速くないですし、人間が 100m を 10秒台で走ると速いと思うはずです。それに対して、どれくらいなら厚いと感じるかは、それが何であったとしても、場合によって人によってかなり感じ方が違って、それほどはっきりとは定まらないのではないでしょうか。
そういうわけで「速み」は成立しにくいが「厚み」は成立しやすいと言えます。
あるいは、「親しさ」は「どのくらい親しいかの程度」、「親しみ」は「親しく思う気持ち」と言い換えたらもっと解りやすいのかもしれません。
- 「+さ」=程度、説明
- 「+み」=気持ち、思い入れ
ただし、「親しみ」の場合は形容詞「親しい」の語幹+「み」ではなくて動詞「親しむ」の連用形が転じて名詞になったものという解釈も成り立ちます。ちょうど動詞「悲しむ」から名詞「悲しみ」ができるようなものですね。
いや、逆に「悲しみ」は「悲しい」の語幹+「み」であるという解釈も成り立つのであって、正直言って私のような素人には判別がつきません。専門の学者はどういう解釈をしているのか訊いてみたいものです。
話は戻りますが、主観的・感情的というところから転じて「+み」は抽象的な、計測不能なものに対しても使えます。
- 「+さ」=具体的、計測可能
- 「+み」=抽象的、計測不能
「暖かさ」と「暖かみ」を比べてみてください。
暖かさは摂氏何度という形で測ることができますが暖かみを測る尺度はありません。「深みがある」というのもこの類です。
大体以上が私の解釈ですが、そもそも穴だらけの説明ですし、いずれにしても言葉というものは必ずしもルールに従わないもので、しかもそのルールは時代とともに変化して行きます。
でも、そこが言葉の面白さだと思います。言葉がそういうものであってこそ、面白みがあるというものです。
上で述べたような牽強付会な説明を試みるより、大雑把に感覚的に把握しておくのが良いのではないかと思います。
ところで「茂み」の「み」って何でしょう? 元が形容詞でもなければ、マ行五段活用の動詞でもないですもんね。「茂り」→「茂み」なんでしょうか?
これは私にも全く解りません。
【追記】ある人が「茂み」についてネット上に書いているのを見つけました。
その人は「み」を場所を表す接尾語と捉え、「深み」も「弱み」も「茂み」も全部一緒に「…な所」という説明をしていました。うーん、どうでしょう?
上にも書きましたが、「深い」「弱い」が形容詞であるのに対して、「茂る」は動詞です。ひとまとめにするには少し無理があるように思います。
他に動詞の例があるかな?と考えたら、すぐに「窪み」を思い出すのですが、これはマ行五段活用の動詞「窪む」の連用形を名詞に転用したものであり、非常に一般的な用法です。ところが「茂る」が「茂り」ではなく「茂み」になるところが不思議だと思うのです。
ただ、いずれにしても、意味は「(草木が)茂った所」です。「深み」=「深い所」と同じような意味の構造です。成り立ちが違うのに同じような意味の構造であるところがなんだか気持ちが悪いのですが(笑)
********** 以上再掲
さて、気がついたら主にネット上に若者言葉として新しい使い方の「さ」と「み」が出てきていました。例えば「分かりみ」。
そういう用法についてはポツポツ耳に入って来てはいたのですが、twitter の私の粒に対して、会社の後輩の女性が「分かりみが深い」とリプしてきたのを機会に、初めてちゃんと意味を調べてみたのです。
その用法について書かれた記事もたくさんあって、例えば、
まあ、大人たちが気持ち悪いと言うのもよく解ります。若者らしい言葉の特徴として、これは文法的にはかなり無茶苦茶な用法です。
ただ、私が約10年前に分析してみせた(と言うか、単に素人の推測でしかないのですが)「み」の使い方と比べると、使っている人の気持としてはそれほど変わらない気がします。
「み」を使うと具体性を外して表現をボカし、印象を和らげる効果があるのです。
上に引いた記事の中には「分かりみがある」=「分かる」と解説したものがありますが、私が受ける感じとしては「分かりみがある」=「なんか分かる気がする」、「分かりみが深い」=「なんかよく分かる気がする」みたいなニュアンスではないかと思います。
かつてやっていた自分の「ことばの Web」でもたくさんの記事に同じことを書いてきましたが、若者にとっては「断定を避けてボカす=他人との距離を取る=敬語の一種(人間関係を和らげるツール)」なのではないでしょうか。
言葉は変わります。さとみも変わります。
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