名前をつけることが人を動かす
【4月20日 記】 このところセクハラ財務次官のニュースで持ちきりである。
で、この事件と報道をきっかけに、「実は私もそうだった」という現役のあるいは元記者の女性たちの証言たちも出てきた。そして、その一方で、放送局のほうも「スケベ親父には女性記者をあてがっておいたほうが情報が取れる」と思っていたに違いなく、そこからしてセクハラであるという批判も出てきた。
そんなあれやこれやを見ていて、ふと思ったことがある。
セクハラというのは別に昨日今日始まったことではない。大昔からあったはずだ。というか、大昔からあって、でもそれは男なら許されて女なら辛抱するしかない当たり前のことであり、別段問題にもならないことであったはずだ。
それが問題になるようになったのはもちろん時代が移り社会が変わったからだという言い方もできるのだが、僕は誰かがこれにセクハラというネーミングを与えたことが非常に大きかったのではないかと思うのである。
名前があるから人は初めてそれをひとつのまとまった概念と捉えて観察したり分析したり批判したり改善したりできるのではないだろうか。
名前がないと、それは「よくあるなんでもないこと」でしかないのである。それに対して「それはセクハラだ。セクハラは良くない」と誰かが言い出してくれたから、初めて女性の側から反抗の狼煙が上がり、加害者側の存在である男性たちも共に考えられるようになったのではないだろうか。
名前をつけて非難するのは、例えば戦時中の日本での「非国民」呼ばわりとか、戦後アメリカの「アカ」狩りとか、あるいは中国文革時代の「修正主義者」とか、もう世界の歴史のありとあらゆる排斥や差別でずっと繰り返されてきた手法である。
そんなものと今回のセクハラ報道を一緒に語るのはお門違いだと言われるかもしれないが、でも、名前をつけることが人を動かす第一歩なのではないかな、とふと思い至った。
もちろん名前をつけた人間は、それを「よくあるなんでもないこと」ではなく「ひとつのまとまった概念あるいは現象」と読み取れたからこそ、そこに固有の名前を与えるという発想に至ったのである。
そう考えると、名前をつけることのインパクトがことさら強く感じられるのである。
名前ってすごい、と思う。
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