『神秘大通り』ジョン・アーヴィング(書評)
【1月17日記】 ジョン・アーヴィングの14作目の長編小説である。僕がアーヴィングについて書くときはいつも「ここにあるのはいつものアーヴィングである」という同じ出だしになるのだが、それは本当にいつものアーヴィングがここにいるのだから仕方がない。
例によって登場人物のうちの何人か(しかも、そのうちのかなり重要な人物)は障碍を負っている。あるいは事故に遭って障碍を負う。自分から男の体にまたがるような、セックスに対して積極的な女性が出てくる。同性愛者が出てくる。作家が出てくる。サーカスが出てくる。
今回も上下巻にまたがる巨編であり、主人公の、ほとんど生涯にわたる物語である。そして、その途中でたくさんの人が死ぬ。
そんないつもの物語の中で、僕は今回はとりわけ「とりとめもない」という感じがした。小説としてはもちろん途中にいろんな展開を含んでおり、それによって筋が運ばれるのであるが、そのエピソードの一つひとつが、いつに増して非常にとりとめもない感じがした。
足を車に轢かれたり、ライオンに噛みつかれたり、エイズになったり、本人たちにとっては非常に重く残酷な事態なのだが、その一つひとつがまるでとりとめもない感じで進んで行くのだ。
訳者はあとがきで「陰惨な物語となってもいいはずなのだが、なぜだかからっと明るく賑々しい」と書いているが、僕はそんな屈託のない感じではなく、(これはいつものアーヴィングの態度なのだが)それぞれにとっては悲惨な事故でも、世間から見ればとりとめもないものだと言っているような感じがした。
それは作家が冷淡であるということではない。アーヴィング自身が述べているように(そして、この本のあとがきにも書かれているように)彼の小説は「細かなディテールがわからないだけ」の「あらかじめ決められた衝突コース」なのであるが、訳者も書いているように、そこには「人間なるものを愛おしむ作者の思いが濃く漂っている」のである。
それは作家の、人間存在全体に対する俯瞰的な視点なのであり、そして、それは彼が書き綴っていく「細かなディテール」の中にこそ息づいている。
それから、もうひとつ感じたのは、この小説を読んで、ここにはカトリックの教条主義に対する批判が込められていると感じる読者もいるだろうが、僕はあまり安易に「作者の意図」みたいなものを読み取らないほうが良いような気がする。
それは登場人物のひとり(たまたまそれは主人公のフワン・ディエゴなのだが)がそういう見解を述べているに過ぎない。例えば我々の隣人がそんなことを言い出したのと同じで、その話を聞いた我々が、感銘を受けるのか、反発するのか、あるいは聞き流してしまうのか、それは聞く(読む)人次第なのだ。
さて、あらすじを書いていなかった。メキシコの貧民窟のゴミ捨て場で生まれ育った主人公が、サーカスでの暮らしを経て、牧師と女装の娼婦のカップルの養子になってアメリカに移住し、作家になってフィリピンを訪れる話である。
そんな風に書くと、アーヴィングを読んだことがない人は随分突飛な話だと思うかもしれないが、波乱万丈のようで何も起きていないようでもあり、エキセントリックな人物のようであり普遍的な存在でもある物語と主人公に、読者はきっと魅せられることになる。
今回も大いに読み応えがあった。
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