『きみを夢みて』スティーヴ・エリクソン(書評)
【9月29日特記】 買ったまま長らく放ってあった紙の本である。エリクソンの本は結構読んでいるが、どれを読んでもよく分からない。
「では、何故読むのか?」という問いに対する答えは、ひとつは「しんどいけど面白いから」であり、もうひとつは「別に分かろうとして読んでいないから」ということなのだが(笑)
でも、他の作品に比べると、この小説は構造としては分かりやすいほうだと思う。ただし、ストーリーは、と言うか、場面はいつもどおり入り組んでいる。いや、入り組んでいると言うよりも、迷い込むのである。
この小説においても、一応主人公は小説家であり地元の海賊ラジオ局で DJ をやっているザンと、写真家である妻のヴィヴ、そして12歳の息子パーカーの一家の話が中心である。
ザンとヴィヴはエチオピアの黒人少女ゼマを養子にし、シバと名づける。それだけでも波乱含みの設定である。その上、ザンはお金の問題を抱えている。持ち家を銀行に持って行かれるのも時間の問題である。
そんな話を読んでいると、突然ロバート・ケネディの話になる。いや、すぐにロバート・ケネディの話になったとは分からない。あれ?なんか違う場面になったぞと思いながら何行か読み進むうちにいつのまにかロバート・ケネディの話になっていると気づくのである。
小説の冒頭が(作中にオバマという固有名詞は一度も登場しないが)どうやらオバマが大統領に選ばれた日であっただけに、オバマとケネディ、しかも JFK ではなくロバートとどう繋がるのだろうと思う。
しかも、そこにはザンもヴィヴも登場せず、ジャスミンという黒人女性が主人公だ。
でも、小説である以上、この時代も場所も異なる2つのストーリーはどこかで繋がらなければならない(結局は「おお、そんな風に繋がるのか!」と2度驚くことになるのだが)。
そうかと思うと、今度はザンが書いた小説が語られる。主人公は X という男。この X は作家で、いきなり1920年台のベルリンにタイムスリップして、そこでまだ発売されていないジョイスの『ユリシーズ』を拾い、それを剽窃して自分の作品を書く。
──こんな風に、ストーリーはあちこちの別のストーリーへと迷い込む。
また、それぞれのストーリーの中でも、ヴィヴはエチオピアにシバの産みの母を探しに行って知らない街に迷い込み、同時に食うに困ったザン一家はロンドンへ旅立ち、そこでハンプトン宮殿の迷路でシバは迷子になり、子守のモリーがシバを連れて行方不明になり、ヴィヴと連絡が取れなくなったザンとパーカーはベルリンで途方に暮れる。
そして、そんなストーリーの合間を縫って歴史観や人生観が語られる。時に関する考察も多い。「われわれのスラングの中に、未来が宿る」(ちくま文庫、45ページ)、「絶えずあるのは光ではなく、影である」(同、367ページ)など、深い表現が次々に出て来る。
その背後で過去と未来が繋がり、音楽と政治が繋がり、でも、やっぱりそれが何なのかはっきりとは分からないうちに小説は終わる。でも、分からなくても良いのだ。彼の小説は直接脳に何かを分からせようと働きかけるのではなく、耳から入ってきた音楽が心の動きを起こすように、眼の粘膜から体に染み込んでくるものだから。
この小説の最後の一文は読み方によっては随分あざとく、嫌気が差すかもしれない。でも、訳者はそういう意味に理解すべきではないと解説している。
僕はただ小説内のあちこちに迷い込みながら、その言葉が自分の体に染み込んでくるのを静かに感じている。
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