読み方
【8月25日特記】 なーんか日本人の(あるいは、これは日本だけの現象ではなくて現代人共通のことなのかもしれないですが)文章の読み方が少しおかしくなっているような気がしてならないのです。
ここ何年かそんな風に感じることは折に触れてあったのですが、最近また決定的な事例に出くわしました。それは稲垣えみ子さんの記事の炎上です。
そう、あの電気を使わずに生活している元朝日新聞記者のアフロヘアの女性。その人が AERA に書いた記事が大炎上してしまいました。
少なからぬ人がご存知かと思うのですが、一応 URL を書いておきますので、ご存じない方はそちらを先に読んでください(このページが永遠に存在するのかどうかは知りませんが)。
https://dot.asahi.com/aera/2017081500062.html
んで、すぐに想像がつくように、批判を浴びたのは前半部分。てっきり自分の本を買ってくれたのかと思ったら図書館から借りた本だったので「傷ついた」というくだりです。
この部分が反感を買うのは分かります。僕だって彼女の感じ方は少し歪んでいると思います。
しかし、この文章は「図書館で借りてタダで読むやつはけしからん。ちゃんと買って読め」という主旨の文章ではないのです。なのに何故その部分だけが取り上げられて叩かれるのかが僕には分かりません。日本人の文章の読み方がおかしくなってしまったのかな、と思う次第です。
その後彼女はこう続けています:
そんなことをぐるぐる考えていたのですが、ふと気づけば私とてマッタク偉そうなことは言えません。
そう、先ほど自分が述べたことを否定こそしていませんが、少なくともそんなことを言った自分を自己批判しています。そして、こうも書いています:
送料無料の本を買ってお得だと思っているのは私です。配達してくれる人への敬意はどこに? 宅配便を届ける人がいなくなっているのはきっと多忙のせいだけじゃない。私のような人間から投げつけられる「敬意のなさ」のつぶては人の心を静かに殺していくのだと思います。
(中略)
でも世の中はつながっているのです。得をした自分の反対側には確実に損をしている人がいる。そして気づけば自分がいつの間にかその損をする側に回っていた。これを因果応報という。ここから抜け出すにはまず自分のお金の使い方を考えねばなりません。
図書館で借りた本を作家の前に持ってくることを依然として「敬意のなさ」と捉える感覚には僕も違和感を覚えはしますが、でも、図書館の本を持ってきた「担当の方」に傷ついた自分を恥じ、自分の普段の振舞いを振り返って「因果応報」だと戒め、もう一度自分を見つめ直そうとしてる。──僕にはそういう風に読めました。
そういう文章に対して、その前段を捉えて批判すると言うか、批判すると言えるレベルや種類ならまあ構わないのですが、むしろ罵倒するような感じになるのは、失礼とかいう話ではなく、論理的になんか変だぞと思うのです。
「傷ついた」とか「敬意のなさ」とかいう表現には「うーん、なんか妙なプライドのある人だなあ」と思うし、「読んでくれただけでもありがたく思え」「ケチ臭いこと言うな」「図書館を否定するのか?」という批判も分かるのですが、でも、そこは言わば通過駅であり、彼女が間違った自分という終着駅に到達したのは偉い、と言うか、そこは正常だなあと思う気持ちのほうが強いのです。
だって、それがこの文章の結論ですもん。そして、自分にもそんな面があるな、などと考えるのです。文章を読むってそういう経験ではないかと思うのです。
どの部分でもコピーできて、どの部分にも自由にコメントをつけられるのがネット社会の特徴であり、そういう社会にいるとどうしても細かいところにいろいろ言ってしまいがちなのは解りますが、でも、自分の書いていることが、文章を半分しか読まずに批判している人と同じになっていないか、ちょっと考えてみる必要があるんじゃないかな、などと思ったりもします。
ま、こんなこと書いているとこの文章も炎上してしまうのかもしれませんが。
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