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Sunday, June 04, 2017

映画『武曲』

【6月4日特記】 映画『武曲』を観てきた。「ぶきょく」ではなく「むこく」と読ませる。熊切和嘉監督。時代劇ではない。剣道ドラマである。

で、これは難しいものを観てしまった。いや、解釈が難しいのではなく、評価が難しいのである。

僕には主人公の父子(将造=小林薫と研吾=綾野剛)は共感できる人物ではない。ともに似たような狂おしいものを抱えている。そして、ともに酒浸りになっている。

将造は剣道のことしか考えていない。自分が勝つことと息子が強くなることが全てだ。そのために幼い息子を罵倒して竹刀で打擲し、時には真剣を突きつけ、優勝しなければ意味がないと言って息子の準優勝トロフィーを棄ててしまうような理不尽な父親だ。

研吾はひたすらその父を憎みながら育った。だが、愛憎は表裏一体でもある。防具をつけずに木刀で対決した研吾は父親の頭部を叩いて植物人間にしてしまい、そのトラウマから逃れられず、毎日酒浸りの自堕落な生活を送っている。

父親もまた息子への愛情を素直に表現できない不器用な男だ。だが、僕はそういう不器用さに対して寛容な捉え方にそもそも嫌悪感を覚える。

そして、その2人が防具をつけずに戦うというのが既にスポーツとしての剣道を逸脱しているわけで、そこからして僕はもう共感が持てない。それは剣道ではないだろう? 武士道でもない。酔っ払って暴れるのは武士道ではない。

パンフで綾野剛へのインタビュアーが、「この映画は『そこのみにて光輝く』と共通する点がたくさんあります。あえて類似した構造の物語を再度演じることで『そこのみ』を超えようとする意図があったのでしょうか」と言っているのを読んで驚いた。

僕は『そこのみにて光輝く』には深い共感を覚えた。だが、この父子には乗り切れない。同じ綾野剛出演の映画だが、監督も違うし、その設定には何か決定的な差があるように思う。

でも、映画はすこぶるよく撮れているのである。回りくどくならずに、緊張感を持って流れて行く高田亮の脚本。狂気を演ずる綾野と小林。そして、夜の大雨の中での決闘を含め、殺伐としたムードが全面に漂う近藤龍人の撮影。

将造と研吾の父子の愛憎を中心とした物語に、ラッパーの高校生・融(村上虹郎)が絡んでくる。彼は剣道部とのいざこざをきっかけに、その才能を見抜いた光邑(柄本明)によって剣道の世界に引き込まれる。光邑は寺の住職であり、剣道部のコーチであり、将造の親友であり、研吾の師匠でもある。

村上虹郎はかなりの嵌り役だったと思う。将造・研吾の父子よりさらに若い世代としての対比をなす重要な役どころだったが、非常に好演していたと思う。

光邑は研吾を立ち直らせるきっかけとして、融を彼の許に送り込む。融もむやみに強くなりたい、勝ちたい男だ。勢い研吾に挑みかかる構図になる。そして、この2人もまた防具をつけずに戦うのを好む。

で、この光邑と、研吾の行きつけの小料理屋の女将・三津子(風吹ジュン)の2人が、物語の中で触媒としてよく機能している。

誰もが自分を縛るものから抜けられない。──この物語はそういうことを言おうとしているのかもしれない。でも、僕はこういう設定からは共感を得られなかった。

だが、映画としてはよくできていた。ただし、同じ熊切監督なら僕は『私の男』のほうが遥かに好きだが。

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