私たちをくくらないで
【6月29日特記】 昨夜、とある勉強会で女子大生のプレゼンを聴いた。「女子大生の生活を観察すれば未来が見える」とのタイトルがついたもので、学会で発表して賞までもらったものの一部だ。
説明した某大学4年生の女子が言うには、
- 私たちを「○○系女子」と呼ばないでほしい。そんな風にくくられたくない。自分たちは時と場合と気分によって、ある時は「お嬢様系」であり、ある日は「スポーツ系」になり、ある瞬間は「ゆる系」だったりする。
- 親世代たちは何かを登りつめて頂点に立つことを目標にしている。自分たちはそんな風に縦に上がって行くことは考えていない。ただ、自分の世界が横に広がって自分が成長するのが楽しい。親世代の幸せはウェディングケーキ、私たちの幸せはバースデーケーキ。
- 私たちの幸せは追求するものではなく、選択するものだと思っている。目指すカリスマ・スターもほしいブランドもない。身の周りから自分が満足できるものを選びたい。
- 私たちはむやみにググって探したりしない。情報は Google で検索するのではなく、インスタグラムで「待つの」。
等々。
面白かった。そして、そういう感じ方に対して僕自身あまり違和感がない。僕もくくられたくない。僕も登り詰める人生を選んでいない。ブランドにもこだわらない。
自分の若かった日々と比べても、今の自分と重ねても抵抗感はほとんどない。
ただ一点だけ、どうも理解できなかったのは、それほど「違う」と言いながら結局は「私たち」なのかよ、ということ。
そういう感覚は若かった頃の自分にも今の自分にもない。この発表を一緒に聴いていたおっさんたちと自分を一緒にして「私たち」と言うかと言えば決して言わない。そういう一体感、連帯感みたいなものはない。
それは戦後の混乱も安保闘争も終わってしまったあとの時代に成長期を過ごしたせいかもしれないし、あるいは、単に僕だけが変わっているのかもしれない。
なんであれ、僕は「私は」と言うことはあっても、「私たちは」という主張をしたことはあまりないと思う。
「あんたたちは年寄りだから分からないんだよ」と、上の世代に対して明確な悪意を持って十把ひとからげにすることはあっても、自分のほうをひとくくりにする気にはならない。
僕は小学校の頃からずっと「他人と違うようにするためにはどうすれば良いか」と、そればかり考えてきた。
昨日話を聞いた女子大生は自分たちをひとくくりにしないでほしい、ゼミの仲間といるときとサークルの仲間といるときと就活をしている時は違うし、女子大生もひとりひとりみんな違う、と言う。
そんなことを言いながら結局「私たち」という主語で語っていることがどうにもこうにも腑に落ちないのである。
いや、腑に落ちないという表現は少しニュアンスが違うかもしれない。僕は不審がっているのでも、憤っているのでもないのだ。
そこにある彼女たちの一体感、連帯感にただほんわりと驚いているのである。
次は彼女たちの「私たち」ではなく「私」について、もう少し訊いてみたい気になった。
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