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Saturday, May 27, 2017

映画『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

【5月27日特記】 映画『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を観てきた。5月末にして今年初めての外国映画となった。僕は全くのノー・マークだったのだが、妻が観たいと言ったので。これがアカデミー脚本賞と主演男優賞を獲った映画だということも知らなかった。

で、結論を先に書くと、さすがに賞を獲るだけのことはある、素晴らしい映画だった。と言うか、まだアメリカ映画にもこういう作品があったのだと驚いた(普段あまり外国映画を観ないということもあるんだろうが)。

マッチョなヒーローもタフなヒーローも出て来ない。かと言って型破りなヒーローが抱腹絶倒の大暴れして、個性こそが一番大事、と暗にアピールするでもない。

主人公のリー(ケイシー・アフレック)は有能な便利屋ではあるけれど、コミュニケーション能力ゼロで、顧客とのトラブルが絶えない。無愛想で酒癖が悪く、酔うとすぐにけんかを売って殴り掛かる。手に負えない暗い男である。

そんな彼が、兄が死にかけているとの連絡を受けて、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰る(ちなみに他地区のマンチェスターと区別するためにこう呼ばれることが多いというようなことではなく、バイ・ザ・シーまでが正式な地名である)。

一足違いで兄は死んでしまい、その遺言によって、ひとり残された16歳の甥パトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人になるために、彼はその街に居残らざるを得なくなる。でも、その街は彼にとってはとても辛い思い出の場所なのである。

映画はフラッシュバックの手法で、その辛い過去を次第に明らかにして行く。でも、それはものすごく淡々とした描き方である。

もしこの映画を語る中で「実はリーには隠された驚愕の過去が!」みたいな書き方をしている文章があったら、それは正しいニュアンスを伝えていない。この淡々とした沈んだ描き方こそがこの映画の鍵であるとも言える。

その一方で、今どきの若者らしいとんでもない甥とのギクシャクした生活も、これまた淡々と同時進行で描いて行く。

アメリカ映画伝統の家族主義的傾向からは脱していない(と言うか、家族がこの映画の大きなテーマである)が、それでも愛する家族のために命がけで頑張って勝利を勝ち得ました──というような直線的な話には全くなっていない。

淡々と描かれた世界の中で、リーは自分を責め、自分を責める気持ちがあるのに現実には罰を受けなったということで、まるで自分で自分を罰するみたいに生きている。

映画館を出て妻と二人で互いに「切ないよなあ」「切ないよねえ」と言い合って歩いた。そういう映画である。

人間の心の傷とかゆらぎとかいうものを見事に捉えた脚本に僕は驚いた。全てが乗り越えられるわけではない。いや、乗り越えられなくても良いんだ、と言っているようにも見える。だが、そういう教訓を語る映画では決してない。

リーが歩いていたら別れた妻(ミシェル・ウィリアムズ)とばったり出会い、新しい夫との間にできた赤ちゃんを連れた彼女と辛そうに語るところを、複数のカメラを細かく切り替えながら捉えたシーンがとても印象的だった。

監督のケネス・ロナーガンが脚本も書いているのだが、こういう脚本は却々書けるものではない。そして近年では、こういう脚本が映画になることも、アメリカ合衆国では珍しいことなのではないかなと思った。

やりきれない話なのに、やりきれない映画にはなっていない。そこがすごいと思う。

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