『超AI時代の生存戦略』落合陽一(書評)
【5月31日特記】 今年になって初めてその存在を知り、ネットやイベントで話を聞いてとても興味深く思い、著書も読んでみなければと思っていた落合陽一の最新刊。
このところ電子書籍しか買っていない僕が、(当初は)紙でしか売っていなくても買ったくらいだから、結構入れ込んでいるのが分かってもらえるかもしれない。
で、ひと言で言って予想通りの面白さである。
このある種の楽観論は、ある意味ちょっと危ない思想であると言えなくもない。だが、それは著者が規定している古い世界観から一歩も抜け出せていないということを自ら証明しているようなものだ。落合が言うのは、まさにそのパラダイムから抜け出せということなのだろうと思う。
プロローグはスマートフォンについて書き起こし、来るべきシンギュラリティ(この本の副題には「シンギュラリティ」に括弧書きで<2040年代>と添えてある)に触れ、第1章ではいきなり「ワークライフバランスではなくワークアズライフ」であるべきだと唱え、そこからテクノロジーの歴史と思想史を紐解き、真ん中を過ぎたあたりからなんだか急に精神論っぽい展開になるのが逆に面白い。
でも、ここにあるのはよく考えられて練られた、一貫性のある、見事に閉じた理論体系である。
そして、何よりも良いのは読んで面白いこと。多分それは著者も大事にしていることではないかと思う。
面白いフレーズがいっぱいある。
「シンギュラリティ以降は必然的に開発自体とマーケティングは同義になってくる」(第2章、p.87)
「最も上のレベルと下のレベルのことを押さえておけばよくて、その中間工程を全部コンピュータが代替してしまえばいいのだ」(第2章、p.96)
「人間にしかできない『おぼろげな想像力』」(第2章、p.127)
「貧者のバーチャルリアリティ」(エピローグ、p.176)
で、結局「今私たちに求められていることは、シンギュラリティへの恐怖を掻き立てることなく、人と機械の調和した、そして人間中心主義を超越した計算機自然の中で、新たな科学哲学を模索していくことである」(エピローグ、p.182)というところに落ち着く。
なんだよ、そんな凡庸なところに落ち着くのかよ、という気もしないでもないが、「機械ではないことを基準にした人間の定義は、人間によく似た能力を持った機械が現れたときに自壊する」(エピローグ、p.193)と言われるとぐうの音も出ない。
そう、そういう機械の出現と、そういう人間の自壊こそが、シンギュラリティなのかもしれない。却々スリリングで面白い著書であった。
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