『騎士団長殺し』村上春樹(書評)
【4月28日特記】 端的に言うと、僕も村上春樹を読みすぎているのかもしれない。今回のこの作品にはどこか既視感がある。どこかで読んだようなシーン、どこかで読んだような表現がずっと続いているような感がある。
実は村上春樹の熱烈なファンが彼を真似してこれを書いたのだ、と言われると、あ、やっぱりそうだったのか、と思ってしまいそうな小説なのである。つまり、極めて村上春樹的ではあるが、今回に限っては新しさがないような気がした。
それを悪く言うと、村上春樹もどれを読んでも同じような感じになってきたな、ということになるのだが、実のところどの作家にだってそういうところはある。ジョン・アーヴィングなんてその最たるものではないか。作家が熱心に取り組んでいるテーマはどうしても凝縮されてくるのである。
今回の主人公「私」は30代の画家である。突然妻から不可解な離婚を言い渡され、ひとり家を出て車で東北を放浪する。その後、親友の雨宮の厚意で、彼の父親である有名な日本画家・雨宮具彦の家に住まわせてもらう。小田原の山の中の邸宅である。
そして、谷を隔てた向かいの家に住んでいる免色(メンシキ)という金持ちの男が「私」に接近してくる。自分の肖像画を描いてほしいと言う。決して怪しい男ではなく、むしろそこら辺の誰よりも常識家のようにも見えるが、動機がどうも不明である。
そうこうするうち、「私」は、その家の屋根裏で、世間に発表されていない雨宮具彦の作品(仮に『騎士団長殺し』と名付ける)を発見する。そして、不可解な事件の後、その絵から抜け出した騎士団長が「私」を訪れる。彼は自分がイデアであると言う(そして、下巻にはそれと対比してメタファーであると名乗る男も出てくる)。
そう、この辺りから完全にいつものハルキ・ワールドなのである。ただ、『1Q84』のような危機に満ちて禍々しい波乱含みの感じは少し弱い。変な言葉遣いをする騎士団長とのやりとりや、妙な頼みごとをしてくる免色とのエピソードはそれほどの起伏なく進んで行く。
いや、面白くないかと言えば面白い。いつもの村上春樹なのである。ただ、途中それほど転がる感がなく、ファンとしては読んでいてちょっと心配になるのも事実である。
今回はプロローグの後の最初の章に現在の「私」の境遇が書かれており、物語がそこに収束することは最初から見えている。こういう展開は村上春樹にしては珍しいのではないか?
そして、いつもと違って物語のエピローグに当たる部分が非常に穏やかで静かな形で、割合長く書かれている。これもニュー・ハルキであるような気もする。
読み終えてみれば結局は僕らは今回の作品の新しい村上春樹を発見している。いつもよりテーマ性が明確な感じがする。「ああ、それはそういう意味だったのか」みたいな明確さが今までになくあるような気がする。
例によって暗闇や地下や穴ぐらが出て来る。「私」は必死の思いでそこから抜け出してくる。今回の村上春樹はその暗い道のりを乗り越えてきた村上春樹なのかもしれない。
実生活でも子供はおらず、作品においても子供を持つことについてあまり書いてこなかった村上春樹が、孫がいてもおかしくない年齢になって初めて子供を持つことについて書いている。
それは恐らくイデアとしての子供でありメタファーとしての子供であるのではないだろうか?
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