『吾輩は猫である』夏目漱石(書評)
【3月28日特記】 朝日新聞電子版の連載で『吾輩は猫である』を読み終えた。ずっと読んできたこの夏目漱石のシリーズも、これで連載終了かと思うと少し名残惜しい。
僕はこの超有名な小説を実は初めて読んだのだが、読んでみて驚いたのはその構成のグダグダ感である。僕がすぐに連想したのは現代の作家である保坂和志。そう、彼の作品と同じく、なんだかウダウダ喋っているだけのような小説なのだ。
タイトルこそ『吾輩は猫である』だが、一貫して猫の一人称で語られているわけではない。時には猫の飼い主である主人や寒月くんや迷亭くん、独仙くんらが延々と明治の文明批評や文化論を語るばかりで、その間猫は不在なのである。
で、その話の逸れ方も通り一遍ではない。これって小説なのか?随筆じゃないの?と言いたくなるような、あっちへ行ったりこっちへ来たりする展開がまさに保坂和志的なのである。
僕はてっきり、こういう形式の小説は近代小説における物語性一辺倒の傾向に対するアンチテーゼとして出てきたのだと思っていたが、100年以上昔に夏目漱石が、しかも、近代小説のスタート地点でこんな構成の物語を発表していたのかと驚くのである。
そして、グダグダ言っている中に風刺や揶揄があり、また、自分を茶化すようなところまであり、また、登場人物を笑いものにしながら一方で隠し味みたいに鋭い批評眼が埋め込まれていたりするところはさすがに漱石であると思う。
ところで、漱石自体はこの後、このウダ喋りの処女作からもっと物語性に富んだ小説に転じて行く。そして、物語全盛の時代を経て、そのストリームから再度外れて行ったのが保坂和志だと思うのである。
そう言えば保坂和志の小説にも、猫の視点から書いてはいないが、よく猫が登場する。これってひょっとしたら『吾輩は猫である』と直結しているのではないかと気づいた。
『吾輩は猫である』の話に戻ると、あっという間に猫が死んで終わるというこの幕切れ感、尻切れ感は圧倒的に切れのある現代的な手法である。やっぱり漱石は文豪であり、文豪は現在と繋がっている。
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