かまやつひろしが亡くなった
【3月2日特記】 かまやつひろしが亡くなった。世間的にはどのくらいの反応なのだろう? 阿久悠や大瀧詠一が亡くなったときほどの反響はないのかもしれないが、日本ポップス界はまたひとり偉大な作家を失ったと僕は思っている。
作曲家として抜きん出ていただけではなく、(彼がどれほどの数の歌手や作品のプロデューサーを務めたのかは定かには知らないが)とてもプロデュース感覚に優れた人で、そのプロデュース作品の代表が多様に変化する歌手かまやつひろし本人だったと思う。
僕がかまやつを知ったのはグループサウンズのザ・スパイダースだ。ロカビリー時代はさすがに知らない。
で、GSブームが去って何年も経ってから振り返って、「あの時ロックをやっていたグループはかまやつのいたザ・スパイダースだけだったのかも」としみじみ思ったのである。
今さら言うまでもないが、乱暴に総括してしまうと GS は歌謡曲の一部だった。ブームを支えた作家たちの顔ぶれを見ればそれは明らかである。
だからと言って僕はグループサウンズに価値や意味がなかったなどと言う気はない。ただ、本当はやりたくなかった歌謡曲をいやいややっていたグループがあったのも確かで、そんな中で自分たちがやりたい音楽をしっかりやっていたのはザ・スパイダースだけだったような気がするのである。
ザ・スパイダースもご多分に漏れず、最大のヒット曲である『夕陽が泣いている』と『風が泣いている』の2曲は大御所・浜口庫之助の作品である。しかし、それ以外の主な曲はほとんどかまやつひろしが書いていた。
昭和を代表する名曲となった『あの時君は若かった』や、堺正章ではなく井上順が珍しくリードボーカルを取った『いつまでもどこまでも』のようなメロディアスな作品もあれば、『フリフリ』や『バン・バン・バン』のような結構本格的な日本語ロックンロールもあった。
『ノー・ノー・ボーイ』のような、当時の日本にはなかった進行と構成の曲もあった。『あの時君は若かった』にしても、サビの「いつまでも」の後を2小節ではなく4小節に延ばした処理の仕方とか、エンディングのジャズっぽいコード進行とかに僕らは驚いた。
ソロになってからも『どうにかなるさ』のような正調カントリー調のもの、『四つ葉のクローバー』みたいな思いっきりフォーキーなものから、『ゴロワーズを吸ったことがあるかい』のようなファンキーな(こんな曲は他の人には書けないだろう)ものまである。
アラン・メリル、大口広志とウォッカ・コリンズを組んでタイトなロックを聞かせるかと思えば、よしだたくろうと『シンシア』をデュエットし、そのよしだたくろう作の『我が良き友よ』や阿久悠・筒美京平コンビの『青春挽歌』を歌ったりもする、なんとも融通無碍で守備範囲の広い人だった。
実は以前の僕の上司がかまやつひろしの古くからの友人であった。そして、もう何年前になるのだろう、その上司が亡くなったときかまやつが葬式に来ているのを見た。
どこだったか忘れたが、東京の、閑静な住宅街にあるお寺だった。焼香の列に並んでぼんやり弔問客を見ていると、喪服と喪服の間にちょっと違う感じの人がいるのに目が止まった。
他の弔問客と同じく黒ずくめではある。しかし、生地は布ではなく皮だ。そして、ベルト辺りに何個かキラキラ輝く装飾物がついている。足許を見たらなんとロング・ブーツではないか。驚いて視線を上に移したら髪の毛は金と黒のまだらだ!
それがかまやつひろしだった。ああ、そうか、かまやつさん、それがあんたの喪服なんだね、と僕は妙に納得してしまった。そして、彼なりの喪服で上司の葬儀に駆けつけてくれたことがなんだか嬉しかった。
その彼がとうとう鬼籍に入った。どんな衣装、どんな髪型で彼は三途の河を渡るのだろう?
急に映画『TOO YOUNG TO DIE!』を思い出した。あの映画の赤鬼のキラーK(長瀬智也)みたいに、かまやつは地獄で(なのか天国でなのか知らないが)エレキギターをキュイーンキュイーン鳴らしているのかもしれない。
いずれにしても日本ポップス界の巨星であったと僕は思う。例によってご冥福を祈ったりはしない。ただ、彼の死を惜しみ、作品を慈しむのみである。
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