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Thursday, February 09, 2017

知的遊戯

【2月8日特記】 今、朝日新聞デジタルの連載で夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んでいるのだが、昨日、一昨日の回がとても面白かった、というか、こういうのは僕以外にも面白いんだろうか、こういうものを面白がる文化はまだあるんだろうか、と気になったので書いてみることにした。

一昨日の「192」では迷亭と独仙が対座して囲碁をしている。まず「賭けないとやらない」という迷亭をたしなめて、独仙が陶淵明の詩句を引いてもっとゆったりしないとダメだと言う。

迷亭は「さすが仙人だ」などとテキトーなことを言いながらハチャメチャな碁を打つ。

そのあと、この2人を見た「吾輩」が、なんで人間は囲碁みたいな窮屈なものをするのだろうと深い感慨を述べるのを挟んで、翌「193」では迷亭と独仙の丁丁発止に戻る。

まずは迷亭が司馬遷の『史記』の「項羽本紀」の有名な鴻門之会の場面を引用しながら勇ましく攻め込んで来る。

それに対して独仙は碁石を「こう継いで置けば大丈夫」と言いながら、「継ぐ」からの連想で、唐の文宗の句に柳公権が継いだ連句を引用する。それを受けて今度は迷亭が「継ぐ」を「撞く」に掛けて「撞いてくりゃるな八幡鐘を」と俗謡で返す。

すると独仙は無学禅師の言葉を引いてさらに切り返す。その手に慌てた迷亭は「待った」をする。独仙が「ずうずうしいぜ、おい」と言うと、迷亭は「Do you see the boy か」と来る。これは読んでいても俄に解らなかったのだが、「ずうずうしいぜ、おい」と「Do you see the boy 」がシャレになっている。

そのあと2人のやりとりは、歌舞伎十八番や禅語まで引きながらさらに続いて行く。なんとも凄まじい知的遊戯ではないか?

で、僕はそれをものすごく面白く思ったのだが、僕以外の読者もおんなじように面白がって読んだのかな、と気になったのである。

こういうのを「知ったかぶり」「ひけらかし」と嫌がる向きもあるが、実はそんなに浅いものではないと僕は思う。

明らかに漱石はこの知的遊戯を面白がって書いている。さあ、この引用、どこまで解る?と楽しんでいるのが見える。朝日新聞デジタルには脚注がいっぱいついているので解るが、こんなもの素で読まされても解るわけがない。僕が知っていたのは「鴻門之会」だけである。

だが、漱石はそういう自分の博覧強記をこれ見よがしに展開しているのかというと、そんな単純なものではないように僕には思える。多分漱石は、自分をも含めたそういう一種のスノビズムを茶化して楽しんでいる面もあるのだ。

その辺の二重構造がとても面白いのである。でも、それは二重になっているから初めて面白いのかと言えばそうではない。僕にはこの「ひけらかし合戦」が、もうそれだけでものすごく面白い。重ねて書くが、これは見事な知的遊戯である。

僕はそういうペダンティックなねじれた世界がとても好きだ。そもそも pedantic という言葉自体が好きだ。

なぜなら pedantic という単語そのものが pedantic だから。これを翻訳すると「衒学的」という、これまたこけおどしみたいな日本語になるところも良い。「こけおどし」の「こけ」は「虚仮」で、元々仏教用語だったという辺りがやっぱり衒学的で面白い(笑)

考えてみたら、この手のやり取りを数年前までよく twitter でやっていた。と言っても、漢籍や古典でやるにはハードルが高すぎるので、もっぱら昔のヒット曲の歌詞や CM のコピーなどの引用合戦であったりしたのだが。

「どれだけ知ってる?」という暗黙の挑発に、知っているマニアだけが打ち返してきた。そして、それを知るマニアがさらに二の句を継いだりもした。

夜中のタイムラインにこういう応酬が延々と続いた時期があった。twitter が一番面白かった時期だと思っている。

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