『蜜蜂と遠雷』恩田陸(書評)
【2月28日特記】 直木賞受賞作。僕に言わせれば、「なんだよ、今頃になって」という感じの直木賞。こんなに派手なパフォーマンスを見せてやらないと直木賞の審査員は彼女の実力を見抜けないのだろうか、という思い。
言葉で音楽を表した小説。それはある意味アクロバティックな試みである。恩田のファンであれば、前にもいくつかこんな試みがあったなと思い出すはずである。例えば『チョコレートコスモス』──これは言葉で演技(芝居)を表した小説。誰にでも書けるものではない。
あの小説では行間から演技が見えたように、この小説ではページから音楽が聞こえてくる(もっとも僕が読んだのは電子書籍だったがw)。
この小説は世界的なピアノ・コンクールである芳ヶ江国際ピアノコンクールの一次予選から三次予選と本選までの模様を描いた小説である。
主な登場人物は3人。
天才ピアノ少女ともてはやされていたのに、母親の死をきっかけに演奏会をドタキャンして音楽から離れてしまっていた栄伝亜夜。ジュリアード音楽院の優等生で、後に亜夜の幼馴染だったと判るマサル・C・レヴィ=アナトール。そして、養蜂家の息子で家にピアノさえなく、誰も名前を聞いたこともなかったのに伝説のピアニストの推薦状を携えて現れた風間塵。
そのほかに、サラリーマン生活をしていたのに諦めきれずコンクールにエントリーしてきた30歳手前の高島明石の姿も加わる。
それぞれのキャラの建て方もうまいし、筋の運びも巧みだけれど、やはり途中の音楽描写が素晴らしく、聴いてもいないのに響きの美しさや力強さが伝わってくるのである。
そして、音楽を通じて人が変容して行くさまが、あるいは、人を変えていくさまが描かれるのだが、その過程がとても常人には書けない文章と展開になっている。
最後の演奏に臨む亜夜の「ああ、音楽が満ちていく」というその感慨、その形容がものすごい。タイトルも絶妙である。
これは絶対に映画化できない小説である。
仮に果敢なプロデューサーや監督が映画化に挑み、世界的な演奏家を起用して見事な演奏を披露したとする。それは確かに通の音楽ファンを唸らせるかもしれない。しかし、そんなことをしても、逆に、巧い演奏と下手な演奏の区別があまりつかない一般人を感動させることはできないのだ。
実際に音楽を聞かせてしまうとそれは音楽でしかなく、音楽に詳しい人の心は動かすことができても、僕のようにショパンやベートーベンなら少しは知っているがプロコフィエフやラフマニノフなどと言われてもメロディのかけらも浮かばない観客には届かないのである。
この作品は小説にしかできないことを小説で達成している。そこが偉いところなのである。
でも、恩田陸は決してそんな派手なパフォーマンスでしか自分の力を誇示できないような作家ではない。むしろ、なんでもないところにこそ驚くような表現力と構成力を露呈させてしまう作家なのである。
延々と音楽コンクールを描いた小説や、延々と演劇のオーディションを描いた小説でなくとも、例えば高校生たちが朝から晩まで延々と歩くだけの小説を書いたときに、すでに僕らはそのことに気づいていたはずで、あのときに直木賞をあげればよかったのではないだろうか。
ま、でも、いずれにしても、直木賞が獲れて良かったね、恩田さん。ひょっとしたら獲るために少々派手なパフォーマンスを見せてくれたのかもしれない。それはそれで、ファンとしては嬉しいものである。
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