映画『アズミ・ハルコは行方不明』
【12月11日特記】 映画『アズミ・ハルコは行方不明』を観てきた。予告編には大して魅かれなかったのだが、松居大悟監督だと知って観たくなった。松居監督の前作『私たちのハァハァ』がとても良かったから。
『私たちのハァハァ』はほとんど無名の女の子4人が主演だったが、今回は結構名の通った役者が大勢出ている。もっとも、有名な役者を使うのはこれが初めてではなく、すでに2012年に松田翔太主演で『アフロ田中』を撮っている。
さて、見始めて暫くは何のことだか分からない。冒頭は運転する女性の手許とハンドルの映像。女性が日常的に車で移動する、東京ではない、もう少し郊外の生活が舞台であることを示しているようだ。
そして、運転していたのが、タイトルからするとこの後失踪することになる安曇春子(蒼井優)だと判る。
郊外の小さな町が舞台だ。安曇春子はスーパーやコンビニなど、行く店行く店に高校の同級生がいて、「あ、アズミ・ハルコ」と何故かフルネームで呼ばれる。彼女の職場も含めて、かなりうんざりするような環境である。
物語は28歳で失踪する直前の春子と、彼女の高校の同級生だった曽我(石崎ひゅーい)や今井えり(菊池亜希子)らの話、成人式を終えたばかりの元高校の同窓生の木南愛菜(高畑充希)・富樫ユキオ(太賀)・三橋学(葉山奨之)らの話、そして深夜にひとりで歩いている男性に集団で暴力を加える女子高生たち(花影香音ほか)の話の3つが交錯する。
えりと愛菜は接点があり、春子が女子高生たちの暴力を目撃するシーンもあるのだが、ともかく細切れにシーンが繋がれていて、どれがどの時代なのか前後関係がよく分からないのである(後から知ったことだが、これは監督・脚本・Pで話し合って作り上げた構成で、原作の小説は時系列的に書かれているらしい)。
でも、見ているうちに、あまりそれを解明しようという気がなくなってきた。それよりもあることに気づいたのである。
安曇春子は実在の女性というよりも、もっと記号(論)的に扱われているのだ。シーンが細切れにされて前後を入れ替えられたために、なおさら記号的に機能しているように思える。
そもそも「安曇春子」ではなく「アズミ・ハルコ」であるところが既に記号化の始まりではないだろうか?
そして、毎日に退屈しきっていたユキオと学は、春子の尋ね人のポスターを加工してグラフィティ・アートに仕立て上げ、街中にスプレー缶で塗り散らかし始める。それも春子の記号化の象徴と言える。
もちろん映画という存在自体がひとつの大きな記号であるとも言えるのだが、アズミ・ハルコは記号の中の記号として、そしてグラフィティはそのまた記号として、極めて巧みに成立しているように思う。
そういう意味で言うと、この映画の主演は蒼井優と謳われているが、僕は愛菜を演じた高畑充希こそが主演であると思った。この映画に於ける高畑充希は驚異的な演技をしていた。直情的で、ちょっと頭が弱くて、溢れ出すエネルギーを制御できない(ユキオに言わせると「超ウゼー」)二十歳の少女を見事に演じている。
この作品は、その若きヒロインに対して、青春を先に経験した立場から何等かの意味(シニフィエ)を与えるシニフィアンとしてのアズミ・ハルコの不在を描いた映画なのではないだろうか?
そして、愛菜よりさらに少し下の世代の暴走する女子高生たちを登場させて、もう少しストレートに生きてもまだ壁にぶつからなかった(実際彼女たちは警官隊の包囲網を指鉄砲で突破している)頃を表象させているのではないか、というのが僕の解釈である。
このようにこの映画はいろいろな解釈を許す映画である。だから、「なんだかよく分からなかった」という不満を残す映画にはなっていないのである。
何度も出てくる、春子が煙草の煙とともに消えてしまう(失踪したことを暗示する)シーンが良い。そして、春子と曽我が駐車場で言い争うところを、2人の周りをグルグル回る長回しで収めたシーンがすごかった。
石崎ひゅーいはシンガー・ソングライターとしては良い詞、良い曲、良い声を披露してきたが、演技者としてはまだ初心者である。蒼井優のような怪優とよくタメを張る勇気があった(それほど蒼井優には迫力があった)と感心したほどのシーンだった。
ひとことで言って、ものすごく含蓄のある映画。今年で言うと、これほど含蓄のある映画は他には『シン・ゴジラ』しか思い出せない。その辺りに松居大悟監督の才能を感じさせられた。
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