映画『聲の形』
【10月8日特記】 映画『聲の形』を観てきた。ベストセラー・コミックスの映画化だとか。アニメにあまり詳しくない僕でも名前は知っている(でも、今までに観たことはない)京都アニメーションの制作。
ともかく観た人の評価が高い。「『君の名は。』よりも上だ」と書いている文章を幾つか読んだ。上か下かを争ってもあまり意味はないが、つまり、そのくらいレベルが高いということだ。
しかし、「争っても意味はない」と言いながらいきなりこんなことを書くのも我ながら矛盾しているが、始まってすぐに「動画のクオリティとしては『君の名は。』のほうが遥かに上だな」と思ってしまった。
原画同士の比較をすれば「作風の違い」と言えるかもしれないが、その画が動き出して動画となった時に少し気になる点があるように思えた。例えば歩く足許のアップなどで、足だけでなく当然背景も動くのだが、そのスピードがうまく調和していないなど。
やっぱりお金のかけ具合も違うのだろう。ジブリや細田守や先日観た新海誠の映画ほどの圧倒的な動きにはなっていないように感じてしまったのは仕方のないことなのかもしれない。構図は素晴らしいし、背景も非常に美しいだけにちょっと残念ではある。
ただ、それは決して決定的な要素ではない。評判の高さは確かに実感できる作品であったのは間違いない。
まずこれは誰もが書いていることだが、よくもまあこんな難しいテーマに取り組んだものだ、ということである。耳の聞こえない少女と、彼女を虐めた少年の話。どんな風に描いても誰かに叩かれるに決まっている。
そういうテーマを決して迂闊に取り上げたのではなく、脳天気に描いたのでもなく、考えに考え、悩みに悩んで書き綴ったのだということがよく分かる。それがこの映画の説得力なのだ。
特に植野直花という役名の少女の存在が大きいと僕は思う。
西宮硝子という耳の聞こえない転校生を、主人公の石田将也ほど大っぴらではないにしても、みんなで虐めてしまったという思いがみんなにあり、だから高校生になった今みんなが優しく変わりつつあるのに、直花だけはいつまでも露骨に硝子に罵詈雑言を浴びせる。
ただ、それは直花を『水戸黄門』に出て来る悪代官や越後屋のような絵に描いたような悪人に描いているのではない。誰もが持っている勝手さ、弱さ、理不尽さ、そして不器用さの表象として、この物語は彼女を措定しているのである。
そこにあるのはきれいごとではない世界であり、「きれいごとではないんだ」と糾弾する単純さをも排斥した、深くて一筋縄では行かない世界なのだ。そして、まさに僕らの暮らす世界はそのように進み行くのである。
脇役一人ひとりを個性的に捉え、それをストーリーに上手に絡ませ、鬱屈もときめきもある青春期を本当に瑞々しく描いてある。硝子の祖母の葬儀の日の蝶々とか、硝子の妹が撮り続ける動物の死骸の写真とか、小さなエピソードの配し方も大変巧い。
そして、上にも書いたように、桜や花火などの四季の彩をあしらった背景がみごとに美しいのである。
ただ、観た人がみんな「重い作品」と書いているので僕は一体どんなに重苦しいラストが来るのかと固唾を呑んで観ていたのだが、そのあまりの明るさと軽さにちょっと肩透かしを食らった感があった。
もちろん、あまりにひどい終わり方では観客動員(あるいは原作漫画の大ヒット)が見込めないということもあるのだろう。でも、僕は奈落の底に突き落とされるような非常に後味の悪い結末を期待してしまっていたので、妙に物足りない感じもあった。
僕が作るとしたらもっともっと陰惨な終わり方をしたのになあ、というのが正直な感想である。それが良いことなのかどうかは別として。
やや貶した風の文章になってしまっていたら僕の不徳の致すところである。良い映画であったということを前提に、僕固有の感じ方について少し書いてみた。
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