便所飯談義
【9月25日特記】 若者の間でこういうことがいまだに行われているのかどうかさえ分からないのだが、所謂「便所飯」についてもう何年もずっと気になっていて、もう何年もずっと考えていて、ふと思い立ったことがあるので書いてみたい。
何を今さらと言われるかもしれないが、「はてしないトイレ談義」というシリーズ・エッセイを物している僕としては書かずにいられないのである(笑)
ひとりで食べているのを見られるのが恥ずかしいからという理由でトイレで食事をする若者が出てきたのはいつごろのことだったろう。それは僕には全く理解できない行為だった。
まず、僕はひとりで飯食うことに何の抵抗もないし、それを他人に見られても恥ずかしいなどとは思わないのである。
もちろん世相というものは変わって行くので、ひとりで食べていることが恥ずかしく思われる時代が来ても、恥ずかしく思う世代が現れても、それはそれで不思議ではない。問題はそこから先なのだ。
僕はなんであっても便所で飯は食べたくない。便所は臭くて汚いところである。そんなところで食事をしたくない。たとえひとりで食べているのを見られることが恥だと思っていたとしても、それよりも便所で食べることのほうが屈辱的である。
──と、ここまで考えてふと気づいた。トイレによっては最近はあまり汚くも臭くもないところもあるではないか、と。
僕らの世代は、自分たちが子供だった頃の臭くてきったないトイレのイメージが染み付いているのである。自宅のトイレはそれほどではなくても、所謂公衆便所は、どこのものであってもとにかく汚らしくて悪臭がしたものだ。
そう、単純にそのイメージが僕らの便所飯を阻止しているだけではないか、と。
今、トイレは全般に清潔で衛生的になった。見た目もきれいになり、悪臭も抑えられるようになった。そして、そういうトイレしか知らない若者だから、便所飯ができるのではないか?
つまり、便所飯をするかどうかの分かれ目は、我々のメンタリティの差異ではなく、トイレがきれいか汚いか、臭くて汚いイメージが染み付いているかどうかの差ではないのか、と。
僕らは普段からよくそういうことをすっ飛ばして、「まったく、最近の若い奴らは」などと毒づいてみたりする。でも、意外なところに原因や発端があったりするものなのだ。
いや、ひょっとしたら、僕のこの便所飯の考察は的外れであるかもしれない。しかし、いずれにしてもこの手のことは常に意識していなければならないと思った。
ものごとの表面だけを見ていてはいけない。僕らの知っているトイレと彼らのトイレはまったく別の場所なのかもしれないのだ。
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