『羊と鋼の森』宮下奈都(書評)
【8月3日特記】 他に読む本が溜まっていたこともあるが、買うか買わないか、読むか読まないか、随分迷った本である。結局 kindle に落として読んだのだが、読み始めてすぐに、もっと早く読めば良かったと思った。
とても優れた文章である。
ピアノの調律師の話である。タイトルに使われた「羊と鋼」はピアノの材料に使われている素材である──と言われても、我々ピアノに詳しくない者はすぐにはピンと来ない。
あ、そう言えば、グランドピアノの蓋を開けたら何本もスチール弦のようなものが張ってあった、とすぐに思い出すのであるが、でも羊は?と思う。
ピアノを弾く姉がいた僕などは、この小説を読み進むうちに、その鋼にぶつかって音を出しているハンマーのようなものが白い羊毛に覆われていた記憶が甦ってくる。そして、1年か2年に1回来ていた調律師が鍵盤を鳴らす音が脳内で聞こえるような気さえしてくる。
この小説を読んでいると音楽が聞こえてくる──などとは言わない。滅多なことで本から音は鳴るものではない。ただ、読んでいると不思議にピアノが鳴っているのを感じるのである。それは感じるという以外に言いようのない体験である。
そして、それを感じさせるところが、まさに宮下奈都の筆致なのである。
僕がこの本を読んでいて共通性を感じたのは、小川洋子の『博士が愛した数式』である。あの人もとても巧い作家だった。
僕はあの本では数学を、そしてこの本では音楽を感じることができた。ともにとても静かな文章であるのに、そこから何かが見えるような聞こえるような、いや、直接脳に滑り込んでくるようにして、美しい数式や音楽を感じたのである。
主人公は高校時代にたまたま学校に現れた調律師の仕事を見て、自分も調律師になろうと決める。ピアノも弾けないし、クラシックだってほとんど聴いたことがなかったのに。
そんな彼だから、頑張って勉強して調律師の端くれになれたまでは良かったが、そこから長足の進歩を遂げて一流の調律師になれたりはしない。就職した会社では、最若手だから仕方がないと言えばそれまでだが、ずっと出来の悪い調律師である。
そんな物語が、それほど大きなストーリー展開もなく、ゆっくりと静かに進行する。彼が育った北海道の森の話なども交えながら。
そう、これで羊と鋼と森が揃ったわけだが、このネーミングもものすごく巧い。
そこに彼が高校時代に調律を見た天才的な調律師と、面倒見の良い先輩調律師と、ちょっと嫌なことばかりを言うとっつきにくい調律師などが絡み、さらに彼が調律に行った家の双子の高校生の姉妹が出てくる。
この双子の姉妹の名前が和音(かずね)と由仁(ゆに)である。──面白いなあと思った。
言うまでもなく和音(かずね)は和音(ハーモニー)から、由仁はユニゾンから取っているわけだが、ユニゾンは2つの音の高さが同じであること(同じ高さの音を重ねたこと)、ハーモニーは2つ以上の高さの音が適切な間隔で重なって美しく響くことである。
つまり、どちらも1音の性質を表すのではなく、2音の関係を表す単語であるのに、これを双子の一人ひとりに割り振っているところが如何にも意味深いのである。作者は人を描きたかったのではなく、あくまで人と人の関係を描きたかったのではないだろうか?
双子が連弾をするというような単純なことではない。もっと広いところでもっと深く、人と人は結びついて生きて行くのである。
音を文章で表すわけだからどうしても抽象的な表現が多くなる。それでも、余計な修飾がない分、作家が伝えようとしたことはピュアに伝わってくる。余韻も深く、心は静かに晴れ渡って行く。
読後感は良い演奏を聴いた後に似ている。
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