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Saturday, August 13, 2016

映画『FAKE』

【8月13日特記】 映画『FAKE』を観てきた。森達也監督のドキュメンタリ。

僕は若い頃から一貫してフィクション志向で、ドキュメンタリには特段の興味はなく、映画を観る暇があるならまずノンフィクションではなくフィクションを選ぶ。そういうこともあって、森達也の映像を観るのはこれが初めてである。

しかし、彼の著書は2冊読んでいるし、彼が登壇したパネルディスカッションも見たことがあり、いずれも考えさせられるところが多かった。だから、これはたまたま観たのではなく、はっきりと観たいという意志を持って観た映画である。

取材対象は佐村河内守。聴覚障害者でありながら名曲を何曲も書き、テレビで大きく取り上げられたクラシックの作曲家だったが、週刊文春誌上で音楽家の新垣隆が「18年間自分がゴーストライターだった」と暴露して大きな騒動になった。

しかし、この映画の冒頭ではそういう背景の説明は一切ない。森が佐村河内のマンションに上がり込んで、カメラを回した初日の光景からスタートする。

つい何年か前のことなので、皆まだ忘れてはいないだろう。でも、何十年か経った後でいきなりこれを観た人に解るだろうか?──最初に僕が思ったことはそれだった。

でも、森は過去に起きた事件を自分の主観でなぞってからインタビューを見せるようなことはしない。不親切ではあるが、自分の編集した映像は自分の主観でしかないことを痛いほど認識しているからなのだろう。

佐村河内が最初に憤ったのは、新垣が「佐村河内が耳が聞こえないと感じたことは一度もない」と言ったことだ。

自分の耳がちゃんと聞こえないのは科学的な診断に基づいた事実である。そのことを新垣も知っているはずなのに、なぜあんなことを言ったのか。しかも、その話は増幅されて、自分が耳が聞こえることは秘密にしておくように頼んだということになっている。

森は初日に佐村河内に自分を信じるかと訊く。信じると彼は答える。そして、森さんは僕を信じてくれるのか、と切り返す。森は、信じないと撮れない、心中だ、と答える。

ここまで見ると、被害者である佐村河内と正義のジャーナリスト森が、固い友情で結ばれて、新垣や文春の神山記者の悪逆非道を暴く構成になっているように思える。

が、もちろんこれはそんな話ではない。確かに「信じないと撮れない」というのは、撮り始めるに際しての森の決意表明みたいなものなのだろう。だが、森は常に「胸を張らないこと。負い目を持つこと」をモットーに活動してきた映像作家である。

僕はフィクションばかり観ているので、ドキュメンタリの手法などには詳しくない。ただ、現場は経験していないとはいえ、一応放送局に長年勤務してきたおかげで、一般の観客・視聴者よりも少しばかりの知見はある。

ドキュメンタリと言っても、そこに映し出されている映像がありのままの真実だと思い込むのは短絡である。

そもそもカメラを向けられた瞬間から、人は普段のありのままの自分ではいられない。そして、撮影する側が取材対象に向かって「じゃあ、この辺を歩いてみてください」などと頼んで画を撮ることもある。

要するにノンフィクションというジャンルはそのジャンル名ほど単純なものではない。そして、人間も世の中も常に善悪や白黒をはっきりできるような単純なものではない。

単純化すると人生は楽になる。たったひとつの指標を見て、イエスかノーかを判断して行けば良いので、人生はものすごくクリアで生きやすいものになる。だが、世界は本来混沌とした複雑なものである。

その複雑なものを複雑なまま全体像を捉え、それを分解・分析した上で再び全体像に再構築して捉えてこそ、それは知性の働きであると言える──というのが、この10年ほどの僕の感慨である。

森監督はこれと同じようなことをこう表現している:

社会全体が安易な二極化を求め始めている

森は、佐村河内に対して今まで一方向からしか当てられなかった光を逆方向から照らし、ある意味佐村河内の無念を晴らして行く。

一方で、事件以来全く音楽から離れてしまった佐村河内に対して、「何故音楽をやらない? 本当に音楽が好きなのかよ。頭のなかで音楽が溢れてるはずでしょ」と迫る。

いくつかのテレビ番組が佐村河内を「現代のベートーベン」と祭り上げたのだが、その割には佐村河内が作曲をしている画は全くなかったらしい。その画を初めて佐村河内が森に撮らせたのである。いや、カメラの前で森が佐村河内に弾かせたのである。

そういう大団円でこの映画が終わるのかと思ったら、最後の佐村河内の無言がもう何とも言えないくらい重いエンディングになっている。悪意と取る人もいるかもしれないが、これはむしろ自戒を込めた決意であると僕は受け取った。

そう、世界は、人間は単純ではないのである。

客が来ると佐村河内の妻が必ずコーヒーとショートケーキを出すシーンと、夫妻の隣で森や他の来客を見守って微妙な表情を見せる飼猫が、ある意味コメディリリーフ的な役割を果たしていて、とても印象深い。

しかし、このアップになった猫の表情も、ひょっとすると必ずしもその直前のシーンの猫ではなく、他の日の他のタイミングで撮った映像を「インサート」したのかもしれない。

僕は森達也がそういう編集/演出を排除する人なのかどうかまでは知らない。ただ、何の証拠もなく安易に断定しないでおこうと思うだけのことだ。

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