映画『二重生活』
【7月17日特記】 映画『二重生活』を観てきた。監督はテレビマンユニオンで数多くのドキュメンタリを手がけてきた岸善幸。原作は小池真理子の小説だが、脚本も手がけた岸監督が大幅に手を入れたようだ。
この映画は、ソフィ・カルという人の『本当の話』という本からの引用で始まる。
僕はこの人はてっきり哲学者なのだろうと思ったのだが、実はフランスの女性アーティスト/パフォーマーで、本当に見も知らぬ男を突然理由もなく尾行するというパフォーマンスをやったのだそうだ。
ともあれ、始まり方としてはちょっと重い気がした。観念的、というか、理屈が勝っている感じ。そして、その感じはまさに映画の終わりまでずっと続いた。──この感じをどう捉えるかが映画の評価の分かれ目になるのではないかと思う。
大学院で哲学を学ぶ白石珠(門脇麦)は、修士論文を書くにあたって100人へのアンケート調査を考えていたが、担当教授の篠原(リリー・フランキー)から「アンケート調査は哲学的なアプローチではない。むしろ対象をひとりに絞って尾行してみてはどうか」と勧められる。
決心がつかないまま教授の部屋を辞した珠は、自分のマンションの向かいの豪邸に住む石坂(長谷川博己)をたまたま書店で見かけて興味を持ってしまい、そのまま彼を尾行する生活に入ってしまう。
この辺りの設定は大変面白いし、筋の運び方もかなり巧い。ただ、やっぱり「(まるで珠と同じように哲学を専攻している学生が)頭で考えました」という感じはどうしてもする。
珠はゲーム・デザイナーの鈴木卓也(菅田将暉)と同棲している。夜は背中合わせにそれぞれデスクに向かってそれぞれの仕事や勉強をしている。ベッドはひとつ。卓也が朝から催してセックスすることもある。
キスしていきなり挿入という描き方に、観ていて少し驚いた。こういう描き方も逆に観念的なイメージを残してしまう。
さて、珠の尾行は、石坂に何の秘密もなかったなら退屈のうちに終わったかもしれないが、どっこい彼には愛人がいた。
出版社の部長の仕事は順風満帆で、大きな家に住み、美人の妻と可愛い娘に囲まれて何不自由なく暮らしているように見えながら、実は澤村しのぶ(篠原ゆき子)というキャリアを持つ女性と逢瀬を重ねていた。つまり彼には二重の生活があったのである。
それを知って珠は尾行から抜けられなくなる。だが、素人の尾行である。どこかでバレるに決まっている。かなり長い間見つからずに跡をつけてきたが、とんでもない修羅場で自分の存在がバレてしまい、しかも、あらぬ疑いまでかけられてしまう。
一方尾行が忙しくてよそよそしくなってきた珠に、卓也(彼は珠が尾行をしていることを知らない)は何か距離を感じてしまい、なんで一緒に暮らしているんだろうなどと思い始める。
ストーリーはこれに篠原教授の私生活をからめて、かなり重層的に描かれる。しかし、僕はどうしても、どこか「言いたいこと」が先にあって、そこに向かって論理が走っているような感じがするのである。
脚本の構成は見事で、自分で蒔いた種をきれいに全部刈り取っている。ゴミ置き場の監視カメラの映像が時々挟まれるところなど、よく考えてあるなあと感心してしまう。常に次の展開が用意されているので、「尾行だけで2時間も持つのか」という心配は無用である。
尾行シーンも、ともすれば大部分を珠の視点で切り取ってしまいがちなのだが、追われる対象と一緒に珠の姿が映り込んだ構図が少なからず使われて、これは主観に落ちまいとする監督のスタンスなんだろうなと思った。
ところで、後半ネタばらし的な展開があるのだが、この意図は一体何なのだろう?
僕はわざわざネタばらししてくれなくても、その登場人物の最初のシーンから、「きっとそういうことなのだろう」と思ったのだが、監督はそれをずっと伏せておきたかったのか、それとも観客が気がつくのは自明で、あくまで珠に対するネタばらしという意味で、いくつかのシーンを用意したのだろうか?
僕は、もし観客に対しても伏せておきたかったのであれば、序盤で少し描き過ぎだと思うし、もし観客が気がついても良いと思っていたのであれば、観客に対しても伏せたまま走ったほうが面白かったのではないかと思う。
ただ、いずれにしても、非常に面白かった。それぞれの人物が(矮小感も含めて)鮮やかに描かれていたように思う。ただ、初めから終わりまで非常に哲学的な映画だな、とは思ったが(笑)
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