すっと言える
【6月18日特記】 東京転勤が決まって、社内の多くの人が「東京希望やったんやて?」と話しかけて来る。決して東京に嫌々行くわけではないのだが、「東京希望だった」というのはちょっと違う。
現に自己申告書の転勤希望の欄には「今さら転勤しても仕方ないっしょ」(原文ママ)と書いていたのだから。
多分誰かの思い込みが広がったのだろう。
一方で逆の思い込みをした人もいる。かつての上司で、今はシニア・スタッフとして働いているT氏である。
T氏はエレベータで僕と一緒になると、僕の目をじっと覗き込んでこう言った。
「東京行くんやて? 希望と違うんやろ?」
これまたどうしてT氏がこんな風に思い込んだのかは謎だ。「希望に反して東京に飛ばされた」というのも違う。違い方としては「東京希望だった」というのより遥かに違う(笑)
でも、そう言われて、この人はなんと素敵な人だろうと思った。
意に反して異動させられた人間に、開口一番「希望と違うんやろ?」と話しかけられる人は滅多にいない──しかも、こんな風に優しい口調で。少なくとも僕にはできない。
相手が落ち込んでいるかもしれないと思うと、大抵の人はこんな話しかけになる。
「で、本人の希望としてはどうやったの?」
「東京希望やったん?」
「東京やて? ええなあ、俺も行きたかったわ」
下に行くほど(喋っている本人は、気を使ったり励ましたりしているつもりでも)不用意で、逆なでする言い方である。
おずおずと切り出して、相手の反応を見ながら言い方を考えるか、あるいは一番下の表現のように、最初から「かまし」に出るかである。
それに対して、顔を合わした瞬間に、すっと「希望と違うんやろ?」と言えるのはT氏の品格である。そして、それは他の誰にもできない、思いやりに溢れた表現なのである。
こっちが何を考える暇もないうちに、すっと一歩踏み込んで懐に入る感じ。剣道で言うと、すっと一歩踏み出すのと同時にすっと竹刀を振るう感じ。それは大上段に振りかぶった「面」ではなく、派手な動きの「抜き胴」でもなく、謂わば「小手」である。
あっと思ってるうちに気がついたら「小手」で一本取られている。僕はやっぱりこの人が好きだなあと思った。
「いや、異動希望は出してなかったんですが、老後は東京で暮らすつもりであることは会社に言ってました。そしたら『ちょっと早いけど、行くか?』って言われたんです」
と僕が答えると、彼は「なるほど。相変わらず老成しとるな」とよく分からないことを言い残して、笑いながらエレベータを降りて行った。
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