『坂の途中の家』角田光代(書評)
【6月5日特記】 最近ついぞ小説を読まなくなった妻が珍しく「読みたいのでついでに買って」と言った本。妻が読み終わって、僕も手にした。
読んでいる時に妻は「どんどん先が読みたくなる本ではあるけど、読んでいるとどんどん気分が落ち込む」と言っていた。確かにそういう小説だ。
裁判員裁判の話だ。被告人は若い女性・水穂。ひとことで言ってしまうと、育児ノイローゼのような状態になり、幼い娘を風呂場で水に浸けて殺してしまう。水穂本人にはその時の明確な記憶がない。
主人公の里沙子はその刑事裁判の補充裁判員に選ばれてしまうのだが、不幸なことに彼女と水穂の置かれた環境に似通ったところが多すぎる。いや、考えようによっては全然似ていないかもしれない。
でも、里沙子は公判を聞いているうちに、知らず知らずに水穂に共感してしまい、自分と彼女を重ねてしまう。そもそも里沙子自身が2歳の娘の育児に手を焼き、自信をなくしていたところだ。
毎日娘を義母に預けてから裁判所に通い、終わると娘を迎えに行って帰宅して、それから夫の夕食を作るような生活が続くうちに、今まで特に不満もなかった夫ともなんだかぎくしゃくし始め、義母にも反感を覚え、気がつくと反抗期の娘にも大人げない怒りを抱いていたりする。
里沙子の頭の中で、水穂の行動や思いが自分自身のそれと重なってくる。読んでいても時々これは里沙子の描写なのか水穂の描写なのか分からなくなることがあるくらいだ。非常によく練られた構成である。
水穂の義母と同じように自分の義母が自分に悪意を持ち、水穂の夫と同じように自分の夫が自分を疎んじているような錯覚に陥り、里沙子の日常はますます息苦しくなる。
里沙子は深読みの悪癖から抜けられず、どんどんネガティブな思考に陥って行く。ところが彼女の被告人に対する異常な共感は他の裁判員には決して通じない。その苛立ちがさらに里沙子をネガティブな方向に駆り立てる。
──そういう二重螺旋のような進み行きがこの話の怖いところであり、この作家の巧いところでもある。
でも、妻が言うように、そこまで人間のネガティブなところを描いてどうする?という思いも解る。確かに読んでいると気分が塞ぐのである。
さて、ではこの話、最後はどうするのかな、と思っていたら、ある意味救いのある鮮やかな手仕舞いで、この辺りにもこの作家の力量が窺える。
でも、爽やかに終わっているように見えて、どこかに人間に対する悪意が残っているような気もするのである。いや、それは人間存在の限界に対する諦念であり、むしろそれが作家の人間に対する優しさである、と捉えるべきなのかもしれない。
どちらに感じるかによって、彼女の作品をもう一度手に取るかどうか、分かれてくるのではないだろうか。
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