『夢十夜』夏目漱石(書評)
【3月22日特記】 例によって朝日新聞デジタルで読了。
漱石が見た夢というしつらえで第一夜から第十夜まで10作の短篇が並んでいる。こういうのは「漱石なんて読んだことがない」というような人にうってつけではないだろうか。
短くて読みやすい。でも、その短い読書の中で、何度も文豪の表現力に舌を巻くことになる。
その一方で、漱石の描写があまりに克明で鮮明すぎて、「夢ってもっと飛び飛びでぼんやりしたものではないか?」という気がしてくる。
さらに、どの話も妙に引きこまれて面白いのであるが、読み進むうちにそもそも漱石はなんでこんなものを書いたのだろうと思う。
いずれの話も如何にも夢っぽい脈略のないものである。小説というものはストーリー的な決着やテーマの完結性などにとかく縛られるものである。漱石は一度小説らしい脈略を離れて書いてみたかったのだろうか?
ひょっとしてこういう風に読者の想像力に大幅に委ねられる作品こそが漱石の目指す小説であった、などと考えるのは穿ちすぎなのだろうか?
ここに書かれた小品はいずれも因襲や世俗の発想による脈略や束縛から逃れて、まるで水が地面に染みこむように読者の心に入ってくる。
僕は中学か高校の教科書に載っていた第六夜があまりに印象的で、いつまでも忘れられない。
運慶が護国寺の山門で仁王を彫っているというので見に行く話である。
あんなに無造作に鑿を使っていてよくもあんなものが彫れるもんだと“自分”が言うと、見物人のひとりが「あの通りの眉や鼻が木の中に埋うまっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と言う。
僕は当時それを読んでいたく感心した。なるほど、名人というものはきっとそうなのだろう、と瞬時に悟った。僕がうまく彫れないのは中に埋まっている眉や鼻が(心の眼で)見えていないからであって、見えている人には見えているのだ、と思った。
しかし、“自分”は、ならば自分にでもできると考えて家に帰ってやってみる。でも、できるわけがない。浅はかな奴だ。でも、それを受けて“自分”がどう思ったかという最後の一文は、なんだか間抜けなようでとてもチャーミングな結論である。
それが漱石らしいといえば漱石らしい。この十編は実は創作などではなく、ひょっとすると漱石が本当に見た夢だったのだろうか?
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