『門』夏目漱石(書評)
【3月5日特記】 このところずっと読んでいる朝日新聞DIGITALの連載で『門』を読み終わった。夏目漱石としては第4弾ということになる。
漱石の書評については今さらあまり分析めいたことをくだくだ書いても仕方がない気がして、大体短文で終わっているのだが、今回もそんな感じで書いてみようと思う。
この『門』には、『こころ』と同じように、恐らくは親友の女を奪った主人公の罪悪感と苦悩が描かれている。ただし、わざわざ「恐らくは」と書いたのは、宗助の妻・御米が安井の妻であったとはっきりとは書かれておらず、ストーリーの溝を埋めるのは読者の想像力なのである。
漱石のそんな書きっぷりが見事であるとかないとか言うよりも、明治時代の文学はもっと単純でストレートなものだという僕らの思い込みが覆されるところに僕らは改めて驚くのである。
そして、『それから』から引き続いて読んでみて、この終わり方にも改めて感心するのである。
むしろ尻切れトンボな感じで、えっこれで終わり?という気もする。その一方で、仄かな救いの光も感じられ、なんだか圧倒的な余韻がある。こういう終わり方って、僕は勝手に昭和以降の小説の特徴だと思い込んでいたのだが、すでに漱石がやっていたのである。
特に終盤禅寺にこもった宗助が修行とか悟りとかいうところまで全くたどり着かず、もやもやとしてうなだれた気持ちで東京に戻ってきたシーンから、まるで何かの拍子にストンとつっかえが落ちたみたいに、のどかな鶯の声を聞く展開は、読者を驚かせておいて、気持ちを一気に明るいほうへ持って行くようなポジティブな、と言うか、潔いまでの快活さがある。
とかく『坊っちゃん』と『吾輩は猫である』という最初の2編のイメージで語られがちな夏目漱石であるが、この前期3部作などをしっかりと読むと、なぜ漱石が近代文学の祖と捉えられているかがよく分かる。
その一方で、今回も明治の風物や独特の言い回しが楽しく、また漱石独特の当て字が面白いのであるが、ま、今回は細かい例を上げるのはやめておく。
ところで、先日「本は基本的に電子書籍で読む」という宣言をしたばかりだが、考えてみれば漱石についてはもうずっとデジタルで読んでいる。朝日新聞の漱石の連載は、この後少しだけ時代を遡って『夢十夜』、そしてさらに戻って『吾輩は猫である』と続くようである。実は『猫』は読んでいないので大変楽しみにしている。
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