『モナドの領域』筒井康隆(書評)
【3月26日特記】 筒井康隆の小説は何作か読んでいる(が、とりたててファンではないので、多分代表作を読み落としていたりすると思う)。
で、筒井康隆らしい(と言えるほど実は読んでいないのだが)不思議な話である。
河川敷で女性の右腕が発見される。そして、近所の公園からは片足が発見される。バラバラ殺人──と誰もが思うだろう。しかし、その後、女性の体の他の部分はどこからも出てこない。この辺の外し方が僕には筒井康隆らしく思えるのだが、どうだろう?
その代わり、近所のベーカリーでアルバイトをする学生がいきなり右腕の形のパンを焼く。その後、足の形のパンも焼く。彼の目は細かく動きまくっている。そのベーカリーの常連の美大教授が右腕のパンを気に入って買う。そして、新聞にそれを投稿する。
その後、教授は神がかりになって GOD と名乗る。彼の目もいつの間にか細かく動きまくっている。
教授に信者めいたシンパができる。警察が教授を逮捕する。裁判にかけられる。
と、まあ、この辺までは筋が動くのだが、後半は延々と裁判のシーンと、教授がテレビ出演したシーンの会話劇。しかも、教授が哲学めいたことを言うので、やたらと難しい。
いやいや、そもそもこの本、難しい単語が多い。「濫觴」とか「佯狂」なんて、僕は辞書を引かないと意味が分からなかった。
SF というのは科学とフィクションの結合なのだが、この小説においては物理学のみならず論理学や哲学も科学に含まれている。後半の展開を動きがなく退屈と見るか、ものすごく深みのある展開と思うかは、それを楽しめるかどうかなのだろう。いずれにしても筒井康隆でなければ却々書き得ない筆致であると思う。
しかし、一方で筒井康隆もやっぱり年を取ったのだなあと思った部分もある。登場する女の子の名前が今イチ現代的でない。カップルのことをアベックと書いている。iPhone を「iフォーン」と表記している(NHK のニュースならそれで良いのだが)。
こういうのって、編集担当者は何も言わないのだろうか? あるいは筒井康隆自身も、誰にも指図できないような神がかりになってしまったのかな、などと変なことを考えた。
でも、途中で自らの作品『時をかける少女』を揶揄するような表現も出てくる。こういうところがこの人のバランス感覚なのだろうなと思う。
そのバランス感覚の上で、物語はあっちにも倒れずこっちにも傾かず、なんだか一筋縄では行かないまま不意に終わる。うん、これは何だったんだろう?
そう言えば、前に読んだ『ダンシング・ヴァニティ』でも、僕は同じような感想を綴っていたような気がする。それが僕にとっての筒井康隆であり、だからまた時々読みたくなるのではないかと思う。
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