『教団X』中村文則(書評)
【2月22日特記】 長いお話だった。
僕は大体において分厚い長編を好む。それは長編のほうが圧倒的な感動が得られる可能性が高いからだとも言える。しかし、この本には圧倒的な感動みたいなものはあまりなかった。読後感としてはむしろ散漫な感じである。
何故かといえば、登場人物は非常に多いのだが、これが全体を通じての主人公であると言える者がいないためである。しかし、それは作者が意図してそうしたものであると思われる。
あとがきを読むと、中村文則は自らこう書いている。
世界と人間を全体から捉えようとしながら、個々の人間の心理の奥の奥まで書こうとする小説。
ここで言う「世界」と「個々の人間」の関係性を構築して行く上では、恐らくこういう形がもっともそぐわしいものであったのだろうと思う。
しかし、このあとがきにはやや蛇足の感がある。こんな解説を最後に添える必要があるんだろうか?と僕は感じてしまう。それは作家にとって必要な作業なんだろうか?
そして、この小説にも、一事が万事、このあとがきのような側面があって、読んでいる時に登場人物の向こう側に作家の影を見てしまうことがある。ああ、これは作家がこんなことを考えてこの人物に言わせたのだな。ああ、作家のこういう政治的傾向がこのストーリーに向かわせたのだな、などと。
だから、これだけ多くの人物が出てきながら、性格面での描き分けはそれほど明確ではない。登場する2人の教祖(あるいは教祖めいた人物)の存在の仕方は非常に対象的なのだが、一方でそこに巻き込まれていく弱い人間たちはそれほどの差を以って描かれないのである。
僕はそこに物足りなさを感じてしまったのだが、恐らくそれが作者の世界観なのであって、僕はまんまとそこに嵌ってしまい、囚われてしまったのかもしれないと思う。
いずれにしても、これはこう、それはそう、と見事に色分けて終わるような小説にはなっていない。さきほとのあとがきに戻ると、「…捉えて、…書く小説」ではなく「…捉えようとして、…書こうとする小説」という、少し突き放したような諦めたような表現がとても気になる。
そう、ある意味でそのように自由にならない世界こそが作者の世界観なのだ。そこは非常に正しいと思う。そして、僕は読み終わってもやもやとするのである。
これはそういう小説である。
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