葬儀考
【2月26日特記】 昨日会社で、定年後の生活設計についての、所謂ライフタイム・セミナーというやつを受講したのだが、外部から招いた講師がどいつもこいつもサイテーでげっそりした。
まあ、そんなことは社外の人に詳しく語ることではないので、それは措いておくとして、話を聴いていて人の感じ方、考え方というものはこんなに違うのかと思ったところがあったので、それについて書こうと思う。
それは葬儀である。
講師は、将来の生活設計の中で、まず自分の葬儀代を確保しておいたほうが良いと言った。遺族を安心させるためには、それは確かにそうかなと思う。
自分はどんな棺桶に入ってどんな祭壇を拵えてほしいのか、実地見聞して見積もりを取っておけとも言った。そうすることによって、残された家族は葬儀の規模や形式についてあれこれ悩む必要がなくなると言う。それも一理あると思う。
ただ、何故そんなことをするかの理由が、僕にはしっくり来ないのである。
彼は言った。葬式は自分の人生の最後の部分なので、自分が思った通りにやりたい(やってほしい)じゃないですか、と。
その点は僕の考え方と全く相容れない。僕は自分の葬式は自分の人生の最後のパートなどではなく、自分の死後のイベントだと思っている。自分がこの世からいなくなった後、残った人たちがやるイベントである。
だから、残った人が気の済むように、好きなようにやれば良いと思っている。
僕は妻にも、自分が先に死んだ場合は、法的に必要とされることさえやってくれれば、葬儀は別にやらないならやらないで構わないし、とは言え本人のスタイルとか世間体とかもあるかもしれないので、やりたければやれば良いと伝えてある。どうしようか悩むのであればやらなくて良いとも言ってある。
何と言っても僕は既に死んでいるので、生きている人たちに影響力を行使しようと考えるのが間違いである。葬儀は生き残った人たちのイベントなのだ。
小学生の時から僕にとって、葬儀は納得の行かないものであり、だから嫌いだった。親に連れられて親戚の通夜や葬儀に行くと、やってきた親戚たちが酒を飲んで大声で談笑しているのが全く理解できなかった。
まだ小さかったので酒のことはよく解らなかったが、人が死んだというのに何故この人たちは平気で笑っているんだろう?という激しい不信感を抱いた。人が死んだのだから悲しいだろう? 悲しくなくても悲しい顔をしておくべきだろう?
しかし、そんな気持ちをずっと抱いたまま大人になり、その後何度も葬儀に列席するうちに、やがて自分なりの答えを得たのである。
──弔問客が故人のことをそっちのけにして酒を汲み、自分たちの話題で楽しく笑うのは、多分葬儀というものは死んだ人のためではなく、生きている人のためにやるものなんだ、と。それは故人に「死なれた」人が、自分の気持を吹っ切るためのイベントなのだ、と。
だから僕は、妻の気持ちが吹っ切れればそれで良いと思う。葬儀なんかしないと言うならそれも良し、1000万円かけて大きな葬儀をやりたいのであれば、(それだけのお金があればの話だが)それも良し。
いずれにしても、僕が決めることでも指図することでもない。──僕はそんな風に考えている。
ま、でも、多少の葬儀代は先に取り分けておくのがあるべき礼儀であるのかもしれない。葬儀の席では一応悲しい顔をしておくのと同じように。
僕は若い頃から葬式顔と言われており、沈痛な面持ちをするのは得意である(笑)
Comments
>葬儀は生き残った人たちのイベントなのだ。
同感です。
私も死んでまで自分の影響力を行使したいとは思いません。
極論を言えば、墓もどうだっていいくらいです。
自分が生きている間は親兄弟のためにお墓を大事にしますが
自分が死んだあと子どものいない私たち夫婦の墓がどうなろうと興味がありません。
Posted by: リリカ | Saturday, February 27, 2016 16:42