外の人
【12月12日特記】 ここのところ、会社が主催したハッカソンの入賞者といろんな企画のアイデアを練ったりしている。それが面白い。
それは端的に彼らが外の人だからである。
会社の中の人たちとは違い、僕らとは違う経歴と能力と感受性と指向性を持った人々だ。僕らはそういうものに触れて刺激を受ける。
会社はともすれば社員に均質なものを求める。
みんなが同じ目標を掲げて、同じ目的意識のもとに統制の取れた行動をする。誰に訊いても同じ趣旨の答えが返ってきて、決して破綻を来すことがない。
それがチームワークだと言う。特に管理セクションの人間は、そして、下手すると程度の低い経営者は、そういう均質なものを求めてしまう。
だが、そんなところからは新しい物は何も生まれない。そういうことだけをやり続ける会社はほどなく滅びる運命にある。僕らが違うものに触れるからこそ、次の地点に向かうダイナミズムが生まれるのである。
それが見えないのは、静的なものの見方しかできていないからではないだろうか。
僕らはじっと同じ目的なり方針なりにしがみついて動かないわけではない。不動の目的なり方針なりというものがあるとして、メンバーはそこからはみ出さないわけでも飛び出さないわけでもないのだ。
僕らはそこから離れ、そして、折にふれて戻ってくるのである。ちょうど、母船から離れたボートが帰ってくるように。
そして、外の景色を見て、外の空気を吸って、外の軋轢に晒されて帰ってきた連中が、その後の進路を右に曲げたり左に振ったり、進む速度を早めたり遅めたり、あるいは大きく旋回したり急停止させたりするのである。
相対的に言うとボートは元の母船に戻ったにすぎないが、母船だって元の位置に留まっているわけではない。目的だって方針だって動いているのだ。そして、動かしているのは他ならぬ僕らである。
僕らはルールを守り目標を目指すメンバーである一方で、ルールを変え目標を改めるメンバーなのである。
話がずれた。
だから、外と接することが面白い。それは、自分たちが従っているものを変えるきっかけになるのだから。
ウチの会社には「社内の常識は世間の非常識」という名言が残っている。僕らは外の人たちにそのことを教えてもらうしかないのである。
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