前にも書いたかもしれないけれど、バスに乗るたびに思うこと
【12月10日特記】 このことは前にもどこかに書いたのだけれど、バスに乗るたびに思うことであり、今日もまたバスに乗って思ったので、もう一度書いてみる。
今バスに乗ると、車内のあちこちに「降りられるお客様へ ドアが開いてから席をお立ちください」などと書いてある。床にも壁にも窓ガラスにも貼ってある。おまけに「バスが動いている時に席を替わるのは大変危険です」とのアナウンスも入る。
僕はこれらを見聞きするたびに、ああ、日本の社会は何と大きな変貌を遂げたのだろう、と心の底から驚くのである。何度も何度も驚くのである。
みなさんの時代、みなさんの地域ではどうであったかは知らないが、僕が小中学生だったころ、僕が育った地域では、バスに乗ったら自分が降りる停留所に着く前に予め降車口付近に移動しておくのが常識だった。
いや、常識と言うより、善良な市民なら進んで示すべき良識であった。
バスが完全に停車してから漸く席を立って出口に向かったりしようものなら、気の強い運転手だったりすると、「次に降りるの分かってるんやから、さっさと前に来とけよ。あんたのおかげでバスの発車時刻過ぎてしもたやないか」などと思いっきり罵倒されたものだ。
これは喩えではない。僕はこの手の罵倒を何度か耳にしている。運転手ではなく乗客に舌打ちされたりする場合もあった。
だから僕らは、バスの揺れが激しくて歩くのが難しい時には、信号待ちなどの隙に慌てて一歩、また一歩と出口に向かってにじり寄ったものだ。
車内がガラ空きのときでも、後ろのほうに座っている場合は、一つ手前の停留所を過ぎたあたりで席を立って、出口に向かって歩き始めたものだ。
でも、これは運転手に怒鳴られるのが怖くてやっていたのではない。極めて自然な行為だった。何故なら、僕らにとっては「他人に迷惑をかけない」ことが、生きていく中で再優先の事項であったから。
今「バスが停まるまで席を立つな」と言うのは、車内で転んで怪我でもされたらたまらないからだろう。
昔だって気がはやって出口に向かう途中で転ぶ可能性は同じくらいあったのだ。だけど、転んでも怪我するのは自分であり、誰にも迷惑はかけない。それよりも乗り降りに時間がかかって、他の客や運転手に迷惑がかかることを、僕らは嫌ったのだ。
いや、もちろん、満員の車内で転んだりすると間違いなく他の客に迷惑がかかってしまう。だから、転ばないで移動することが必須だった。転ばず、かつ、できるだけ早く前方に移動しようと、それこそ必死だったのである。
今の若い人なら、「そんな他人のことばかり気にしないで、もっとゆったりと生きて行けばいいじゃないですか」と言うかもしれない。
その心根を別に批判しようとは思わない。ただ、どこまで他人を気にし、どこまで自分を解放するかは、それぞれの人の感じ方、人生哲学によるものであり、それぞれの人がそれぞれのラインを探れば良いのである。
しかし、それはそれとして、他人に迷惑をかけまいとすること自体は、僕は決して悪いことではないと思っている。だから、僕らが小さい時にやってきたことは決して間違っていたとは思っていない。
今の時代が正しくて昔は歪んでいたという感覚もない。
それをバス会社が、いつから宗旨替えをしたのか、僕らの昔の美徳を抑え込みにかかっているのが、なんだか悲しいのである。
昔はバスの中で転んでも誰に文句を言うでもなかったが、今だとバス会社に怒鳴りこんだりする人も珍しくない。バス会社としては、下手したら訴訟を起こされたりすることもあり、それで急に、まるで「お客様のことを考えて申し上げますが」と言わんばかりに「停まるまで席を立つな」と言い始めたのだろう。
しかし、手のひらを返したようなその注意書きを見るたびに、僕は「なんだかなあ」と思うのである。
せめて、「あの頃はいろいろ気を使って早めに前に移動してもらってありがとうね。あれはあれで感謝してるよ。でもね、時代が変わってきたので、今は逆に停まるまでじっとしておいてほしいんだよ。ごめんね」と誰かが一度で良いから言ってくれないと、なんだか僕らの昔の好意は報われない気がするのである。
そんなことはないだろうか?
日本が安全で健全な社会になってきたのはある意味確かなのだけれど。
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