何故やらない?
【11月15日特記】 「何故やらないんだ?」という非難の仕方がある。
僕はそれはやめたいと思っている。人生は有限である。時間的にも資源的にも、能力的にも資金的にも。
だから、本当だったらやるべきことであっても、全部をやるなんてとても無理だ。それが個人ではなく企業であっても基本的には同じである。
その上、それをやるべきかどうかという判断は、どんなタームであっても人によって割れるものである。やらなかった側も、確かにやったほうが良いという程度の認識はあったが単にプライオリティが低かったのかもしれない。
それを、自分の価値判断を絶対的なものとして、「これを何故やらないのか?」と迫るのは無理があると思うのである。
人を批判するのをやめようというのではない。人は生きている限り、団体は活動している限り、批判に晒されるのは当たり前のことである。だが、「何故しないのだ?」と、しなかったことを追及され始めるとキリがないのである。
まずは「何故やったのか?」「何故やると決めたのか?」ということから、議論を交わしませんか?と思うのである。
やらなかったことは実はこれからやろうとしていることかもしれないし、本来はやろうとしていたのだが何か已むを得ない事情によって頓挫していることなのかもしれない。やらないことを非難するにはあまりに酷な裏事情があるのかもしれない。
しかし、やってしまったこと、やると決定したことについては、逃れられない責任がある。たとえ已むを得ない事情があってやったことであっても、そこにはそのオプションを選択したという責任がある。
もし、やっていないことをどうしても問題にしたいのであれば、「それをやったことによってこれをやる選択肢がなくなった」という観点からだけにしたい。
そういう態度で批判するくせをつけておくと、批判する側もされる側も建設的な意見を言えるようになるような気がするのだが、如何だろう?
「何故やらないんだ」という問いの最大の難点は、その言葉と内容が持っている殺伐とした響きであるような気がする。
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