『オルフェオ』リチャード・パワーズ(書評)
【11月11日特記】 この本はこれまでの作品のように入り組んだ構造にはなっておらず、パワーズの小説としては非常に読みやすい。だが、やはりべらぼうな書物である。なにしろテーマが音楽と遺伝子工学というとんでもない組合せなのだから。
誰にも理解されないような複雑な現代音楽を書き続けてきた作曲家のピーター・エルズは、70歳を過ぎ大学講師をやめて自宅に引きこもるようになってから生物化学に興味を持ち、微生物の遺伝子に音楽を組み込もうとする。
そこにある日突然警察がやってきて、家宅捜索を始める。容疑はバイオテロ。
たまたま2度めに警察が来た時に外出していたエルズはそこから逃亡する。そして、そこから、エルズの逃亡生活と、大学をやめるまでの半生とが交互に語られる。
時制がころころ入れ替わるので、読んでいて時々分からなくなる。実際全部読み終わってから漸く全体の構造が飲み込めた部分もあった。でも、これまでのパワーズの、目眩がしそうなほど多彩に編み込まれた小説と比べると、作りは非常に単純である。
遺伝子についてはそれほどでもないのだが、音楽についてはパワーズの厖大な知識が存分に埋め込まれている。巻末にある曲目リストを見ると、この小説に登場する曲数は400近くに上っている。ほとんどがクラシックである。
そして、曲が引用されるだけではなく、かなり専門的な音楽用語が散りばめられている。僕はクラシックに対する造詣も浅く、音楽理論についても極めて心許ない知識しかない。ああ、ここに書いてあることのせめて半分でも理解できたら、この小説はもっともっと面白いのだろうな、とは思うが、分からなければ面白くないかと言えば、決してそうではない。
ここではバケモノのように襲いかかっている音の洪水を脳で感じることができればそれで良い。主人公はそんな音楽の横溢の中にあって、彼自身が理想とする組合せを純粋に抽出しようとする。
学生時代にともに音楽研究にのめり込み、やがて恋人となったクララ、エルズの作品を歌ったことがきっかけで後に妻となったマディ、彼の人生で唯一彼の音楽性を理解して仕事上のパートナーとなった演出家のリチャード・ボナー、そして、離婚したマディとともに父の許を去った愛娘セーラらを軸に物語は展開する。
難しい音楽の話がいっぱい出てくる割には、ストーリーも単調にならずに動いて行くので、読んでいて倦むことがない。タイトルの由来については「訳者あとがき」に解説があるが、ここにもものすごく深い含蓄がこめられている。
最後にはほとんど誰ともまともに意思の疎通ができなくなってしまったエルズはひとりで逃げる。終盤は twitter でつぶやきながら。そして、やがてエルズの旅は終わる。
そこで音楽と化学と人生と、さらに星座までもが重ね合わされて、大きな読後感となる。やっぱりいつものべらぼうなパワーズの世界がここにある。
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