『日本の反知性主義』内田樹・編(書評)
【9月28日特記】 寡聞にして僕は「反知性主義」という言葉を知らなかった。でも、読み始めてすぐに、それは近年僕が、政治家たちの非論理的かつ排他的な言説や、ネット上の一部の人たちによる有無を言わせぬ悪罵の中に見出して、とても嫌な気分になっているああいう態度のことを言うのだと判った。
そして、なるほど巧く言ったものだ、という思いと、しかし、「それは反知性主義だ!」と言い放って終わりにするとそれこそ反知性主義なのだ、という思いが交錯した。
知性というのはそういう手に負えないような堂々巡りを含むものなのである。
この本は内田樹の編集のもとで、内田を含む9人の、さまざまな専門領域を持つ著者が文章を寄せ、それらに加えて内田と名越康文との対談が掲載されている。
冒頭に内田による、本全体を概括する、解りやすくストンと落ちる解説が60ページほどあり、それに続いて政治学/社会思想学者の白井聡による一文が続くのだが、これがまた極めて緻密で説得力がある。
ただし、やたら難しくて、こういう文章にぶつかった途端に読むのをやめてしまう読者が少なからずいるのではないかと思った。そうなると反知性主義者の思う壺ではないか。
多分彼らはこれを「学者の空論」などと総括するのだろう、とちょっと嫌な気分で読み進むと、それに続くのが作家の高橋源一郎で、一気に高橋らしい屈託もケレン味もない、素直な文章が展開される。
そもそも高橋の章の副題が「『反知性主義』について書くことが、なんだか『反知性主義』っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、と思って書いたこと」である。こういう思いは非常によく解る(笑)
このふざけたような優柔不断の中に知性があるのである。
その後は作家の赤坂真理、文筆家の平川克美、ライターの小田嶋隆らの解りやすい文章が続く。解りやすいが決して脳天気ではなく、それぞれに躊躇や卑下があるところが反・反知性主義であると言える。
そして、内田と名越の対談の後、映画作家の想田和弘の思索的な文章が続き、それを受けて仲野徹が内科医という全く違う立ち位置から思うところを述べ、最後は哲学者の鷲田清一が締めている。
終盤になると再び少し学術的な考察が展開されるのであるが、難しくはない。鷲田がエリオットを引いて、世の中に多様な摩擦があるからこそ人は反知性主義を免れるのであるとする展開は見事である。
この10人の論に共通なのは、自分も含めて誰もが、少し気を抜くと反知性主義の蟻地獄に堕ちてしまうことを知っていることである。社会の中で生きていくのはことほどさように面倒くさいものである。
しかし、安易に物事を単純化せず、類型論的なアプローチを避け、解り合えない相手と常に討論する姿勢を忘れないことが、その陥穽から逃れる唯一の道なのである。
僕は自分のブログなどに何度かこんなことを書いてきた──多様性に対する許容力の大きさこそが社会の成熟度の尺度である、と。
この本はそれと同じことを言っていた。
Comments