『それから』夏目漱石(書評)
【9月7日特記】 『それから』を読み終わった。これも朝日新聞の連載を Web版で読んだものだ。
『三四郎』の時にも驚いたが、これまたべらぼうな終わり方である。毎日読み重ねてきて、ああ、ここから先代助はどうするんだろう、と思ったら、「本日で連載は終了です」と書いてあって驚いた。
これは余韻があるとかないとかいう問題ではない。読者は暫く、自分の頭で代助の行く末をあれやこれやと案じてしまうことになる。漱石は当然そこまで見通していたはずだ。巧い終わり方である。
しかし、そういう終わり方というのはむしろ現代文学によくあるテクニックであり、例えば江戸時代の戯作文学なんてものはもっとはっきりくっきりとした結末まで描いていたものではなかったか、と訝ったのだが、考えてみれば漱石自身が近世の文学に対抗する新しい文学の担い手であったわけだ。そういう意味では、現代の文学はまだ漱石の遺産で食っているとも言えるのではないだろうか。
これはある種の恋物語である。しかし、主人公の代助が惚れるのは人妻の三千代であり、しかも、自分が親友の平岡との結婚を勧めたのである。これは今で言う不倫である。不倫というのは決して昭和の昼メロで登場したテーマではないのである。
僕はついつい夏目漱石ではなく、漱石の時代を読んでしまう。
この時代特有の設定として、代助は大学を卒業した高等遊民である。当時の大卒というのは大層偉くて値打ちがあったのだろう。しかし、職業に就いていないというのは、今で言うプータローである。親のすねをかじって生きているのである。
いや、すねかじりのプータローなどは別に珍しくもないので驚かない。でも、代助は単なるすねかじりではなく、一軒家に住み、女中の婆さんと書生の青年を雇って食わせているのである。そこまでやるって、どうよ?
でも、この時代の代助はそれを恥ずかしいこととも思わない。むしろ、実業に就くことを卑しいことのように考えている。
──ああ、これが明治のインテリなのか、となんだか感慨深くなってしまう。
代助は父や兄が勧める縁談を全部断っているうちに、自分の三千代への気持ちに気づいて、にっちもさっちも行かなくなってしまう。そして、にっちもさっちも行かないところで小説はぷつんと終わってしまう。これは殺生である(笑)
代助の兄が結婚を渋る代助に対して「さう撰り好みをする程女房に重きを置くと、何だか元禄時代の色男の様で可笑しいな。凡てあの時代の人間は男女に限らず非常に窮屈な恋をした様だが、左様でもなかつたのかい」と語るところがあって、また驚いた。
僕は、江戸時代には親の決めた相手と結婚するのが当たり前であったのが、新時代になって自由な恋愛に基づく結婚が広がって行ったというイメージを持っていたのだが、ここではむしろ逆の理屈が言われている。
確かに江戸時代の住人は武家と公家だけではない。元禄時代の色男は随分窮屈な色恋沙汰を演じて、それを次々と戯曲化したのが近松門左衛門だった。そのことを忘れていた僕に、この小説は明治の結婚観を思い知らせてくれた。
三十歳にもなれば結婚するのが当たり前という、実は今でもまだまだ当たり前に語られる結婚観が、この時代の主流というか、前提であったわけだ。その前提から逃れようとして、いや、全ての世間の因襲から抜けだそうとして、代助は抜けられないところに嵌ってしまうのである。
一方で青白きインテリの悩みを描いているようで、今から読むとしっかりと時代を描いている。この辺りが漱石の不思議ではないだろうか。
今と違って、男女の濃厚な恋愛模様は描かれることがない。それでも、読むうちに代助が三千代に次第次第に魅かれて行くのがすごくよく解る。
特に最初のほうのシーンで、代助が三千代のために水を汲みに行っている間に、三千代が花を活けた水を飲んでしまうところがある。この暗喩のようななまめかしさ、これは現代の作家にはとても書けないだろうなと思った。
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