メディア・ジャーナリズム研究会
【8月7日特記】 今日、高名な元ドラマ演出家の話を聞いた。東京キー局に在籍して、PよりもむしろDとして、数多くの話題作を手がけた人だ。今は80代になっている。
少なからず感銘を受けたので、書き留めておきたい。いや、感銘を受けた部分を抜書きしておきたい。
- 戦争を実体験として語れる人間がこどんどんいなくなる中、我々は戦争を事実として教える形に変えて行く必要があるのではないか? 日本は今まで戦争を事実としてちゃんと若い世代に教えて来れなかったのではないか?
- 戦争体験者は体験を語りたがる。そして、その体験から一足飛びに「戦争反対」といった理念的な部分を若い世代に押し付けてしまいがちだ。が、それでは今は伝わらない。
- 日本の社会は何故だか、戦争を体験として語ることは許すのだが、戦争を事実として語ることを潔しとしないことがある。
- 昨今の戦争ドラマはとかく観念的になりがちである。そうではなく、着物や食べ物や日用品や住居環境など、戦中や戦後の生活のディーテールを重ねて、まずそれを事実として伝えることが大切ではないか。
- しかし、例えば闇市をドラマで正確に再現しようとすると、通常の10倍の美術費がかかってしまう。とてもじゃないけどテレビドラマでは無理だ。それ以前に、今の若い制作者は調べようとしないから、ちゃんと考証のできているドラマはほとんどない。
- 今の時代の司馬遼太郎が出てくる必要があると思う。どんなに通俗的になっても、いいところも悪いところも一緒に、ディーテールを丹念にかき集めて、それらを重ねて描くことが肝要である。それはドラマでなくても構わない。
- ドラマ好きの人は(作る人も見る人も)とかくドラマが一番偉いと思いがちで、純粋にドラマ的なものを求めがちだが、3分の1くらいは若干いかがわしいものが含まれているほうが良い。『日曜8時、笑っていただきます』だって『時間ですよ』だって『高校教師』だって、みんなそういう作品だった。
最後の一文を読んだだけで誰だか判ってしまったかもしれない(笑)
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