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Monday, August 17, 2015

映画『この国の空』

【8月17日特記】 映画『この国の空』を観てきた。昨日の『野火』に続いて、戦争映画嫌いの僕がこの戦争映画を観た理由は、荒井晴彦監督と主演の二階堂ふみである。

荒井晴彦は過去にも監督を務めたことはあるにはあるが、基本的には脚本家である。日活ロマンポルノの昔から今年に至るまで、数多くの話題作の脚本を手がけ、賞もたくさん獲ってきた人である。

この3年間で言えば『共食い』、『海を感じるとき』、『さよなら歌舞伎町』という、いずれも非常に印象に残る脚本を書いている。

で、この映画は戦争映画と言っても、戦争のシーンはない。舞台は杉並区善福寺あたりの一般家庭である。時期もすでに終戦の年で、東京大空襲の話が出ているから、春過ぎから8/14までの話である。既に戦局は一般の国民の目にも明らかである。

そういうわけで、この作品には戦場も兵隊も銃撃戦も出て来ない。米軍の爆撃機は映るが、爆弾や焼夷弾が街を破壊し人を焼きつくすような場面もない。焼土は映るが屍は映らない。

映画はとある母子家庭とその隣に住む男を中心に描くのだが、そこで主に語られるのは戦争の恐怖でも窮乏でもなく、言わば“性愛”である。そして、それは今で言う不倫である。

そう、単純な“恋愛”ではなく、“不倫”であり、さらに言うなら、“恋愛”よりももっと人間の本能に根ざしていて、暮らしとは無関係に人の心の中で息づいている“性愛”の衝動である。

里子(二階堂ふみ)は父を病気で亡くし、母(工藤夕貴)と2人で暮らしている。やがてそこに焼け出された里子の伯母(富田靖子)が転がり込んできて、家庭はややギクシャクする。

隣には市毛(長谷川博己)という男がひとりで住んでいる。彼は妻子を疎開に出し、自分は丙種合格なので兵役に召喚されることなく暮らしている。男のやもめ暮らしなので、何かと世話を焼いているうちに、その市毛に里子が惹かれて行く。

もし戦争がなかったなら、里子は市毛に興味など持たなかったかもしれない。戦争の閉塞感と思春期の衝動が変な形で絡まってしまったのかもしれない。

里子が誰かに「そろそろ年頃だね」と言われた夜に、「そろそろそろそろ」とぶつぶつ言いながら床を転がるシーンが、あの年代特有の鬱屈と衝動を、見事に象徴的に物語っている。

以前にも書いたが、僕は『ガマの油』や『神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』で二階堂ふみを観た当時は、まさかここまでの名女優になるとは想像できなかった。

結構早い時点から後々のスター女優に目をつけていることを自負している僕が、である(笑)

一気にブレークしたのは『ヒミズ』だが、それ以来本当に良い作品に恵まれている。それはやはり多くの映画製作者をそそるものがあるということなのだろう。この映画でも非常にそそられる。言わば女優としてのシズル感のようなものがある。

この映画で彼女は、上品な言葉遣いで、あまり抑揚なく喋る。小津安二郎とか成瀬巳喜男とかいう監督は、実は僕はあまり良く知らないのだが、ちょうどあの頃の日本映画に出てくる日本女性のような喋りをする。

それは、当時の日本女性が本当にああいう喋り方をしていたということかもしれないし、あるいは、何かあの当時の閉塞感みたいなものをそこに込めた演出なのかもしれない。

いずれにしても、その喋り方、そして目の動きで、ギラギラして、でも先の見えない青春の姿を、痛いほど観客に見せつけてくれる。

川上皓市によるカメラは、固定か、あるいはゆっくりゆっくり横移動して、かなりの長回しで役者たちの芝居を切れ目なく捉えている。

特にすごかったのが、買い出しに行った田舎の川べりで里子と母が語り、やがて歌い出す長い長いワンカット・ワンシーン。そこには母と娘の関係があり、しかし、母から娘への、女同士としての濃密な感情も流れている。

その後、母が川に入って行って上半身裸になって体を洗うシーンでは、工藤夕貴の両脇から黒々とした脇毛がはみ出しているのが見えて、どぎまぎしてしまった。僕らはもう忘れてしまっているが、こういうエロチシズムもあったのだ。

そう言えば、日本女性が脇毛を剃るようになったのは戦後のことであると母から聞いたのを思い出した。そう、こういう時代考証もあるのだ。このこだわりには脱帽した。

考証といえば、戦時下の家庭の食事のシーンにも驚きがあった。

結構バラエティに富んでいる、とまでは言わないが、少なくともバリエーションはあったのだ。決して毎日毎日同じものを、不味くて栄養のないものを、仕方なく食べ続けているわけではないのである。

パンフを読むと、兵隊が帰ってきて人口が増えた戦後のほうが食糧難はきつかったとある。

だから、ドラマの中で登場人物はいろんなものを食う。いろいろ理由をつけて、とっておきのものを食べるシーンが出てくる。そんなもろもろの「ごちそう」を、里子も伯母もガツガツ食べる。

その食欲と、やがて抑えきれなくなる男と女の衝動が、この映画の2本の柱となっている。

映画の中で朗読される、茨木のり子の『わたしが一番きれいだったとき』という詩は、高井有一の原作小説とは関係がなく、荒井晴彦が取り込んだものらしい。この着想も素晴らしい。

彼の研ぎ澄まされた脚本によって、この映画は言葉では尽くせない様々なものを、映像という形で実現している。

気の早い話だが、年末の映画賞レースでは、少なくとも上位に食い込むのではないだろうか。いや、是非とも賞を獲ってほしい圧倒的な作品である。

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