『何者』朝井リョウ(書評)
【8月19日特記】 朝井リョウを知ったのは吉田大八監督の映画『桐島、部活やめるってよ』だった。
そもそも監督に惹かれて観た映画であって、原作に興味があったわけではないということもあるが、僕は従来から映画が面白かったからといってすぐに原作を手に取ることはあまりない。
それは、僕が小説を読むときに重んじるのは、設定でもストーリーでもなく、表現力だからだ。いくら物語が面白くても、文章の巧くない作家(それはほとんど形容矛盾とも言うべき存在なのだが、でも、実際にいるのも確かだ)は読む気がしない。
それで、朝井リョウについても、何度か本屋でいろんな小説の冒頭を立ち読みした結果、多分この人なら大丈夫だろうと思って、この作品を買った。
読み始めてまず思ったのは、よくもまあこの作品で直木賞が獲れたなあ、ということ。
この作品では twitter の構造がひとつのキーになっている。自分でも twitter をやっていて、twitter のある種の危うさを実感している人でなければそれほど面白くないだろうと思う。直木賞の審査員に twitter にそれほど通じている人がいるとも思えないのに、よくもまあ直木賞がもらえたものだ、という驚きである。
僕自身は twitter を始めた当初から、メールアドレスからアカウント名を検索できない設定にしているので、この小説の中で起きているようなことは起きないのだが、でも、そういう設定もせずに放置している人も多いんだろうな、と思う。
それだけに twitter 利用者には親近感の湧く話ではないだろうか。
その twitter をうまく使って話は展開する。そして、その展開を追いながら僕が思ったのは、この作家は人の悪意を描くのが巧いということだった。映画監督で言うとタナダユキに通じるところがある。
そして、こういう悪意の物語を、この作家はよく書けたものだと驚いた。何故なら、この物語を紡いでいる朝井リョウ自身が物書きという職業であるかぎり、彼が小説の中で描いている悪意は、まっすぐに作者である彼自身に戻ってくるはずだからである。
だから、この小説を書く作業は、彼自身にもかなりのストレスを与えたのではないかと思う。
その悪意を描くにあたっての、描写の構造がまたすごい。物語の語り手であった主人公・二宮拓人が、終盤で突然物語の中に突き落とされたように、語り手ではなく語られる対象になり、悪意にさらされるのである。
奇しくも序盤で僕が気に入ってマークしておいた「想像力が足りない人ほど、他人に想像力を求める。他の人間とは違う自分を、誰かに想像してほしくてたまらないのだ」(63ページ)という文章が、小説が終わりかける306ページと321ページに形を変えて主人公に、そして読者に襲いかかっている。
そして僕は、そのまま残酷なエンディングを予期して読み進んだ。こういう小説は往々にして、打ちのめされた描写の中に微かな希望の光を暗示して幕を閉じるものだ。
しかし、その予想は外れた。この爽やかな展開は何だろう? この爽やかな敗者の姿は何だろう?
それはある意味「詰めの甘い」クロージングである。しかし、それは優しいまなざしに満ちた再出発でもある。
そういうところがこの作家の魅力なのだろう。もう何冊か読んでみたい。
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