映画『ジヌよさらば』
【4月19日特記】 映画『ジヌよさらば ~かむろば村へ~』を観てきた。
予告編を見て、これはよくあるジャスト・ワン・アイデアの作品だと思った。「もしもお金アレルギーの人間がいたら」──そういう単純な想定に場面を当て込んで笑いを紡ぎ出して行くタイプの。
でも、それだけだと昔あったドリフターズの「もしも」のコーナーと同じである。つまり、散発的には笑えるけど、それだけで映画を2時間持たせるのは無理だ。
その単純な「もしも」を有機的な2時間の作品に仕上げるためには、「うねり」とか「ひねり」とか、「仕掛け」やら「縦糸」やら、ともかく何かが別に必要なのである。
ところが、この映画は、序盤でこそタケ(松田龍平)がお金に触って失神したり、お金を一切使わないことに固執する様を面白おかしく描いているのだが、中盤からそういうギャグをこまめに入れ込む作業から手を引くのである。
つまり、これはそういうギャグ100連発的な映画ではないのだと、そこで僕は気づいた。
原作はいがらしみきおの漫画である。『ぼのぼの』で有名になった人だが、僕は『ネ暗トピア』が好きだった。決して単純なギャグを描く漫画家ではない。
そして、脚本・監督は松尾スズキである。この曰く言いがたい組合せを見れば、もっともっと深い映画だと早くに気づくべきであった。
映画が終わって出てきた時に、横にいた若い女性2人組が「超シュールやった!」と叫んでいたけれど、うん、その感じ良く分かる(笑)
村人のひとりである「なかぬっさん」(西田敏行)が実は神様である(と言ってるけど本当はどうなのか分からない)とか、彼の一族は全員眼が光るというとかいう設定や、あるいは彼が死ぬときの天変地異とかが如何にも松尾スズキらしいなと思って観ていたのだが、実はこれらは全て原作そのままらしい。
となると、これはまさに松尾スズキが映画化すべき原作であったような気がする。そして、彼自身の怪演も含めて、いがらしらしいベースの上に松尾らしい演出がしっかりと乗っかっている。
僕は松尾作品はこれが4本目(脚本まで含めると5本目)だが、漸く彼の映画の観方が解ってきたような気がする(昔の自分の映画評を読み返すと、当時は随分迷いながら書いているのが解る)。
観客の逆や裏を突いて、人間の思い込みや常識を覆したり試したりしながら、細かい仕込みで笑わせておいて、最後はなんか民俗学的な、民話的な世界に我々を引き込んで行く──これはそんな映画であった気がする。
考えてみれば、単なる「お金アレルギー」という設定に東北を絡ませて「銭」を「ジヌ」に変えたのは面白い発想ではあるが、しかし、現代社会にあって、お金から逃れるために田舎に行くというのはどう考えても逆である。
貨幣経済であることは田舎でも都会でも同じで、便利な設備が集中する都会に留まっていてこそ、非接触ICカード(対応店)とネット決済などでキャッシュに触れずに行きて行けるのであり、田舎に行くと不便な分、却ってキャッシュとの接触は避けられないはずである。
それに気づかずに、田舎に行ったら自給自足できるだろうと単純に思い込む若者の馬鹿さ加減というのがある種の裏のテーストになっていると思う。そういう「良い奴だけれど考えの足りない若者」を松田龍平は好演していた。
そして、まるで異物のようなドス黒い役でストーリーに割り込んできた松尾自身を含め、阿部サダヲ、杉村蝉之介、伊勢志摩、荒川良々、皆川猿時ら、いずれ劣らぬ大人計画の面々がいろんなタイプの笑いを誘う。
それ以外では、二階堂ふみとモロ師岡が圧倒的な巧さと存在感を示していた。
軽いけど深い作品、うん、超シュールかもしれない(笑)
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