« Amazon のバナーがおかしくない? | Main | 映画『ソロモンの偽証 後篇・裁判』 »

Saturday, April 04, 2015

『ユリ熊嵐』

【4月4日特記】 『ユリ熊嵐』全12話を見終わった。1クール・レギュラーの深夜アニメを全話観たのは実に久しぶりである。

幾原邦彦という監督は実に変なものを作るとは聞いていたが、全くその通りで、しかも、その変な世界が完璧にコントロールされているところに驚き、堪能した。そう、まさに堪能という表現がピッタリの視聴体験だった。

タイトルからして訳が分からない。ユリと熊と嵐という全く何の繋がりもないものが3つ重なった不思議。まるで落語の三題噺である。

1話、2話あたりだと、これがどう繋がって行くのか見当がつかない。それが次第に繋がって行く、いや、それどころか切っても切れない関係に染まって行く。この計算のしたたかさに舌を巻くのである。

その進行の中に、1話からばら撒かれる数々のキーワード:

「透明な嵐」とは何なのか? 「約束のキス」とは何なのか?

「私たちは初めからあなたたちが大嫌いで、初めからあなたたちが大好きだった」とはどういう意味なのか?

「あなたはスキを諦めますか? それとも人間食べますか?」

「それがセクシー、シャバダドゥ!」

「ユリ承認」

「がうがう」

絵がまた独特である。クマと言われるからクマだと思って見ているが、このクマは人間の女の子より遥かに小さいではないか。何も言われずに見たら絶対熊とは思わないだろう(笑)

我々が抱くクマのイメージは、後足で立ち上がったら人間よりはるかに大きい。そして、山中で人間を襲う。

そういうクマとのギャップの大きさ。おまけにリボンまで付けている。でも、クマはやっぱり人を食べる。それはクマリア星からの光線を浴びたためだ。

そして、人間の女の子に化けたクマがいる。結構少なくない。回が進むにつれて、ひとり、またひとりと正体を現す。

そういう基本線の上に、断絶の壁、ユリ裁判、排除の儀など、いろんな仕掛けが出てきて、ますます見ているものには訳が分からなくなる。でも、終盤それらがちゃんと繋がってくる。

基本は椿輝紅羽、百合城銀子、百合ヶ咲るるという3人の少女たちの友情の物語である。いや、そこに死んでしまった泉乃純花の存在が絡んでくる。

でも、ユリは一般にレスビアンのメタファーとして使われている。この作品でも、それを背景として踏まえた構成をしている。クマはクマだが、マリア様と合体してクマリア様という存在になる。

そして、嵐──「私たちは透明な存在でなければならない」というクラスメートたちの考えを受け入れられず浮いてしまった椿輝紅羽は、透明な嵐の中を吹き飛ばされそうになりながら歩いて行く。

話が概ね見えたところにどんでん返しがある。オープニングとエンディングのテーマも画音ともに素晴らしい。

最終回はとりわけ感動の嵐だった。この見事なトータル・コントロールを名作と言わずして何と言おうか。

見終わって心がほっこりするよ。僕は今とても満足である。がうがう。

|

« Amazon のバナーがおかしくない? | Main | 映画『ソロモンの偽証 後篇・裁判』 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 『ユリ熊嵐』:

« Amazon のバナーがおかしくない? | Main | 映画『ソロモンの偽証 後篇・裁判』 »