『三四郎』夏目漱石(書評)
【3月23日特記】 今日の朝刊で『三四郎』を読み終わった。と言うか、読んでいたら突然終わった、という感じである。まずそのことから書き起こすと、こういう終わり方は良い。夏目漱石がこんな現代的な終わり方をするとは思わなかった。
読んでいたのは朝日新聞の Web版である。今はそのくらい古い名作なら、いつでも「青空文庫」で無料で読めるのだが、こういうものは何かきっかけがないと却々読み始められない。朝刊での連載というのは良いきっかけになる。
『こころ』に続いての連載だった。『こころ』を読むのは3回めだったが、『三四郎』は読んだことがなくて、いつかは読みたいと思っていた。
で、読んでみて驚いた。あまり起伏がない。主人公の三四郎と、同じ大学に通う与次郎の、あまり意味もない日々の学生生活である。このグダグダ感はまるで保坂和志ではないか(あそこまでではないがw)。
そう言えば、猫を小説に登場させたのも夏目漱石だった。そう思って読むと、明治の夏目漱石がなかったら、昭和・平成の保坂和志もなかったのではないかという気がしてくる。
で、いろんな人物がうだうだ言っているだけのような感じもあるこの小説だが、つまる所は三四郎と美禰子の、いや、三四郎の美禰子に対する恋愛小説ではないか。
いや、恋愛と言っても、手を握るでもなく、手を握ることを妄想することさえない。さすがに明治の男子は自制が効いている、とでも言うべきか、そもそも恋愛感情を抱いたことさえうっすらとしか感じさせない。
そう、若きウェルテルのようにプラトニックに悩み苦しむほどのこともなく、野生のごとく女性の肉体を求めるでもない。現代の眼から見ると、それがなんだか辛気臭い。
いや、それどころか、全編が恋愛小説かといえば決してそういう印象はなく、ほとんどのページでいろんな登場人物が文学や芸術や社会をうだうだ語っているだけで、一体この話はどこへ行くんだろうという感さえある。
しかし、この小説の冒頭を思い出すとはっとするのである。
小説の最初で、上京する三四郎は汽車の中で隣り合わせたいい女とひょんなめぐり合わせから宿で相部屋になるのだが、三四郎は女に惹かれる気持ちがありながら何もせず、別れ際に女から「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と笑われたのであった。
結局小説は最後になって同じような状況に戻ってくるのである。今日の最後の連載分になって才女・美禰子は突然人妻となって現れる。三四郎はまたしても何もできないまま終わるのである。
そう思うと青年三四郎の恋愛が切なくなってしまう。
良い終わり方だと言ったのは、そんな風に最初と最後が繋がって環状になっているからである。そして、うだうだしてこんな風に終わるのなんて、全く現代的な小説ではないか。
僕は明治の文豪の新しさに息を呑むのであった。
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