『東京自叙伝』奥泉光(書評)
【3月24日特記】 奥泉光を読むのは2冊目。初めて読んだ『虫樹音楽集』があまりに独創的であまりに面白かったことが今回に繋がった。
しかし、この本はあの本ほど異様ではなく、起伏もない。いや、起伏がないと言っても、それは『虫樹音楽集』のような想像を絶する変身変態の世界と比べての話であり、こちらも尋常な物語ではない。
弘化2年、柿崎幸緒という下級武士の自伝として始まるのだが、この主人公は死なない。いや、肉体は死ぬのだが次々に他の肉体を身につけ、別の人間として時代の流れの中に現れる。
だから、この本には違う人名の付いた6つの章があって、それぞれが違う人物の自伝であるのだが、実は全て同じ人間の6つの時代を貫いた自伝であって、江戸時代に始まった話がなんと最後の郷原聖士では平成の現代人になっているのである。いや、それどころか昭和~平成期の第5章では戸部みどりという女になっている。
さらにこれは直線的な生まれ変わりや乗り移りではなく、自分は東京の地霊ではないかと思っている「私」はまず虫になったり鼠になったりする。しかも、下等動物になる時には一匹の虫や鼠ではなく、うじゃうじゃっと群れなしている虫や鼠の全体が「私」なのである。
そして、人間になっている時も、「私」ひとりが「私」なのではなく、「私」以外に「私」が同時に多数存在するのである。で、私と私が出会うと互いに殺しあったりするのである。
この辺りの発想は『虫樹音楽集』に劣らぬほど奇抜なのであるが、しかし、読み進んで行く中では、やはりやや平坦な印象が残るのは否めない。
まずもって人物が描き分けられていない。柿崎幸緒も榊春彦も曽根大吾もみな同じような人物で読んでいて面白くない。──と苦言を呈したくなるのであるが、しかし、考えてみればどれもこれも「私」なのであるから、これはむしろ必然なのである(笑)
それを狙ってそうしたのかどうかは分からないが、そういう構造もあって、違う時代、違う人物を描きながら、見事に共通した不吉な空気感を醸し出しているのは、如何にもこの作家の真骨頂であるとは言える。
しかし、展開がまた展開で、第1章の辻斬りに始まって、あらゆる時代の禍々しい事件を引き合いに出しては、「あれをやったのは実は私だ」「これも実は私の仕業である」と言い募るのである。だから、歴史上の有名な凶悪事件を単に繋げたような話になり、後半は僕自身が同時代で経験した事件事故が続くこともあって、やや先が読めてしまうところが惜しい気がする。
それから気になるのは文体で、「だ・である」調と「です・ます」調が混在しているのである。
確かにブログなどに文章を書いていると、僕も2つの文体が混じってしまうことがある。「だ・である」で書き進めていたのに、途中で読者に問いかけたり、同意を求めようとしたりすると、ついつい「です・ます」になってしまうことがある。
この小説もそれに近いパタンではあるのだが、それにしても混在しすぎて少し気に障る。それだけは明らかに欠点であると言っておこう。
よく考えた小説ではある。だが、少し知が勝ちすぎた気もする。考えることに汲々とした感じもある。いや、汲々としたと言うよりも、作家は筋を考えること(あるいは繋ぐこと)が楽しくて、それに熱中しすぎたのではないかとも思う。
ただ、いずれにしても、この作家にしか書けない滅亡の世界だとは思う。この凶々しさは読んだ後も少しあとを引くのであった。
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