Negative
【2月11日特記】 最近、と言うか、ここ数年の間に気づいたのですが、僕には嫌いなものが多いみたいです。いや、食べ物の話ではなく、例えば音楽とか、映画とか。
僕には、いくらタダ券があってもコンサートに行きたくないアーティストがいるし、ちょっとその人は勘弁して下さいという映画監督がいます。その人の著書を2度と読む気がない作家がいます。
これがどうやら、他の人にはない、とまでは言わなくても、そんなに多くはない、あるいは、そんなにくっきりとは存在しないらしいということに気づいたのです。
これはとても不思議です。
だから僕は、誘われても、勧められても、タダであげると言われても、どうしても受け入れないものがあるのだけれど、他の人は友だちが良いというものを割合すっと受け入れているみたいで、僕としては少し怪訝に思うのです。
もちろん僕も、嫌いな音楽が鳴ってきたら耳を塞ぐとか、嫌いな映画がテレビでかかっていたらバットで画面を叩き割るとか、そこまではしません。そこを受け流せるだけの幅はあります。
ただ、主体的・能動的な行為の一環として、同じ時間を使うなら、同じ金を使うなら、同じ眼や耳や脳を働かせるなら、他のものを選びたいと思うだけのことです。
これって、とても好きな作家やアーティストがいるのと同じ、と言うか、裏返しだと僕は思うのですが、一方で「とても好き」なものがあるにも拘らず、「とても嫌い」がなくて、特段こだわりもなく友だちにつきあう心がよく飲み込めません。
──と言うか、そういう人がいるのだということに、そして、そういう人はそれほど少なくないということに、つい何年か前に気づいたのでした。
「こだわり」というのは元々は貶し言葉であったそうです。特に仏教思想からすれば、こだわることは良いことではないのでしょう。
でも、こだわりが何かを磨いているような気もするのですが、違うのでしょうか?
ただ、まあ、好き勝手にこだわらせてもらえるのであれば、他人がどうであっても全くこだわりはないのですが(笑)
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