『シクラメンのかほり』の嘘
【12月26日特記】 知人が Facebook に、季節の話題として、布施明/小椋佳の『シクラメンのかほり』には2つの嘘がある、という記事を書いていた。
ひとつは、これは発売直後から指摘されていることだが、「香り」を歴史的仮名遣いで書くと「かほり」ではなく「かをり」だということ、もうひとつは、シクラメンの花にはほとんど香りがないということである。
前者をめぐっては、(その知人も書いていたのだが)「へえ、東大卒の小椋佳だって間違うのか!」という驚きとともに語られることが多い。
しかし、それは東大卒業生に対する極端な思い込みだと僕は思う。東大生は間違わないわけではない。
もちろん、小椋佳が東大文学部で古典文学を専攻していたというのであれば、「そんな人でも間違うんだ!」という驚きは分からないでもない。しかし、専門外のことであれば、どこの大学の卒業生でもいろんなことを間違うものである。
しかし、これがもし今の自分であれば、と考えると、多分僕は間違わないだろうなと思う。
それは、僕が旧仮名遣いには自信があるというのではない。多分辞書で調べるだろうと思うのである。
「ことば」のウェブを長年書いているくらいで、「ことば」には大変興味がある。だからこそ一つひとつ丁寧に確認するだろうと思うのである。
興味のある分野は熱心に調べるが、それほど興味のない分野は調べもせずに知らず知らずに間違っている──そんなもんではないだろうか?
それと、ネットの時代になったからこそ、書いたものを公開する前に確認するだろうという気がする。
インターネットという、昔の媒体とは比べものにならないくらいオープンで伝播性の高いメディアでは、「間違えたものを世間に晒してはいけない」という思いが、しっかりと自分の中に根ざしている気がするのである。
もっとも、逆に自分のブログであれば、公開した後からでもいくらでも書き変えて訂正することができる、という気楽さがあるのも確かではあるが。
そして、今はインターネットのお陰で何を調べるのも非常にたやすくなったという背景もある。昔は調べるという作業は結構億劫なもので、だからこそ専門外のものはなおざりにされがちだったのである。
というわけで、東大卒の小椋佳が「かほり」と書いたからといって驚くには当たらない、というのが僕の感じ方である。
そもそも人名で「かほり」さんなどという表記もあるから仕方がないのであって、(これも昔から語られていることで真偽の程は確かめていないが)実は他ならぬ小椋佳夫人が「かほり」さんなのだという説まである。
それよりもなるほどと思ったのは、「シクラメンにはほとんど香りがない」という後半部分である。言われてみると確かにその通りではないか。
これも興味の向いていないものに対する注意力の散漫なのではないだろうか。
しかし、それにしても、小椋佳はそんなタイトルをつけながら、シクラメンの香りについてはろくに触れていない。
色や印象に対する記述がほとんどで、3番になってやっと「シクラメンのかほり むなしくゆれて」というなんだかよく分からない表現に突き当たる。
繊細な世界を丹念に描くと思われていた小椋佳でさえ、なんとなくイメージに流されてそんないい加減なことを書くのか──そちらのほうが僕にはむしろ驚きであった。
Comments