『闇の中の男』ポール・オースター(書評)
【10月2日特記】 ポール・オースターも若い頃と比べると随分作風が変わってきたように思う。
考えてみれば彼もデビュー作からもう30年以上過ぎ、つまり、僕も30年近く読み続けているわけだ。お互い年を取るのも当たり前だし、作風が変わるのも、それを読んだ時の感じ方が変わるのもむべなるかなというところである。
ところで、柴田元幸の「訳者あとがき」によると、この小説は2002年の『幻影の書』から始まった、「部屋にこもった老人の話」の最後に当たる5作目で、その次の小説からはかなり傾向が異なっているのだそうだ。
そして、そのいずれもが恐らく2001年の9.11の影響を多かれ少なかれ受けているのだろうけれど、柴田によると、この『闇の中の男』についてはブッシュ政権に対する怒りの表れと読み解くことができるのだそうだ。そう言われるとなるほどと思う所が多々ある。
もちろん、柴田が書き添えているように、「書き上がった小説は、歴史上の変数を一つ二つ入れ替えることであとは論理的にすべてが演繹されるような作品ではない」。
今回直接的に描かれているのは、眠れない老人である。辛い過去を抱えて眠れない老人の話である。
一度は離婚したものの2人で長い幸せな時間を過ごした妻を亡くし、自らも事故に遭って自分の足では歩けなくなり、それぞれに辛い経験をして帰ってきた娘と孫娘の3人で暮らしている老人。文筆を生業としていて、その世界ではかなり名が通っている老人。
彼は眠れない夜に話を考える。彼が頭のなかに紡いだ世界では、アメリカ合衆国は内戦状態にあって、ある種のパラレル・ワールドになっている。
そのパラレル・ワールドに若い手品師が放り込まれる。自分では何が起きているのか理解できないが、その世界では彼は伍長である。そして、この内戦を止めるために、彼は元の世界に戻って、この世界を考え出している男を暗殺するように言われる。
この小説では、老人の日常と、老人の頭のなかで展開する奇想天外な物語が交互に語られる。
──こういう構成は今ではそれほど珍しいものではない。僕にとっては村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以来、いくつかの小説で親しんだ設定である。
ただ、話もいよいよ佳境に入ったところで、オースターはこのパラレル・ワールドをぷいっと投げ出したみたいに、ひたすら現実世界の老人と孫娘の夜を描き続ける。ネタバレになるので結末までは書かないが、ともかく長らく放置されるのである。
その辺りになんとも納得の行かない感じがないかと言えばないでもないのだが、しかし、僕は、「ああ、そういうことか」と妙に納得してしまった。
つまり、そんな風にうっちゃることでしか、辛い過去から逃れる術はないのであって、むしろ人間はどこかで何かをぷいっとうっちゃったほうが良いのだ、という気がしたのである。「癒やし」というのは実はそういうものなのかもしれない。
ただ、いずれにしても、小説を読んで、そこからひとつの教訓に辿り着こうとするのは馬鹿げた読み方である。あるいは、危険な読み方である。
オースターの世界は、簡単にそんな馬鹿げた危険な帰結をもたらすものではない。それこそが彼の筆致なのであって、そういう部分だけは昔から全く変わっていないようにも思う。
まあ、ただ、老人の話には少し飽きた感もある。これはこれで面白くないようで面白い作品だったが、傾向が変わったと柴田が言う次回作を心待ちにしている。
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