映画『まほろ駅前狂騒曲』
【10月18日特記】 映画『まほろ駅前狂騒曲』を観てきた。
映画の第1作を観たのは、原作に惹かれたわけでもなく、瑛太と松田龍平のコンビに魅かれたわけでもなく、監督が大森立嗣だったからだ。
不思議な映画だった。日常を描いているのに、その日常がところどころでシームレスに非日常に繋がっており、その両岸の行き来に浮遊感がある。
で、続いてそれをテレビ東京が深夜枠でドラマ化した。今度はなんと大根仁監督である。
随分違うタイプの監督を持ってきたので驚いたのだが、先に大森立嗣演出で『まほろ』を見てしまい、更に大根仁の『モテキ』を見てしまっていた僕は、なんかうまくイメージできなくて、結局1話も見なかった。
で、今回の映画だが、僕は大根仁が監督したものだと勘違いして観に行ったのである。いや、最初に一度は大森立嗣監督だという記事を絶対に読んでいるはずだが、いつものことだが、時間がたつうちにころっと忘れていたのである(笑)
今回の話がオリジナルであるなら、便利屋の日常生活にバスジャックなどというとんでもなく非日常的なアクシデント(しかも犯人は麿赤兒扮する岡老人であるw)を持ってくるところが大根仁らしい、などと観る前から勝手に納得していたのである。
でも、見始めてすぐに、あれっ?大根仁のトーンじゃないなと思った。大根仁にしては大人しすぎる。それで、あ、多分大森立嗣なんだろう、と納得した。
でも、これが如何にも大森立嗣という感じかと言うと、決してそうはなっていない。
なんと言っても話の組立てがやや荒っぽいのである。大森立嗣という監督はもっと緻密に断片を重ね合せて行く監督である。それに、もう少し空気が重くなっているはずだ。
それはおそらく共同脚本を担当した黒住光という人によるところが大きいのだろう(実際には黒住による初稿を書きなおして書きなおしてここに至ったようだが)。黒住は劇場用映画ではこれがデビュー作のようだが、テレビ版では多くの回で大根仁と共同脚本を物している。
だが、この脚本家と大森立嗣は、少し組合せが悪かったのではないだろうか。
それと、僕があまりのめり込めなかったのは、テレビのシリーズを1回も見ていなかったということもあるのかもしれない。
真木よう子が演ずるレストランのオーナー柏木はテレビ・シリーズからのキャラで、すでに多田(瑛太)との間の微妙な恋模様を綾なしてきたらしい。
あと、高良健吾が演ずる麻薬の密売人・星は、最初の映画だけではなく、テレビ・シリーズでもいくつかエピソードを重ねてきたようだ。
そういうことを踏まえて見られたらもっとのめり込めたのかもしれない。
そうは言いながら、瑛太と松田龍平のコンビはさらに磨きがかかって、まさに阿吽の呼吸の演技になっているし、行天(松田龍平)の娘役の岩崎未来は6歳とは思えない巧さだし、他にも新井浩文、永瀬正敏、それに大森一家の麿赤児と大森南朋など、個性的な役者ぞろぞろで、面白いのは面白い。
ただ、上でも書いたように、ストーリー展開が結構乱暴で、そのことが大森立嗣のいつものトーンをうまく出せていない気がした。
今回一番納得したのは、パンフレットに書いてあった「大根仁は行天タイプ、大森立嗣は多田タイプ」という分析。なるほど、これは膝を打つ指摘である。
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