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Saturday, October 04, 2014

映画『太陽の坐る場所』

【10月4日特記】 映画『太陽の坐る場所』を観てきた。同じ矢崎仁司監督の、8年前に観た『ストロベリーショートケイクス』がとても良かったから。

冒頭からトリッキーな画である。

左右2つに分割されている。片方では体育館でバスケットボールをドリブルしながら立っている制服姿の女子高生。もう片方の画面では、その体育館に入って行く、同じ制服の女子高生。彼女が中に入ったところで画はひとつになる。

そしてボールが床に転がり、ドリブルの音が消え、2人のやりとりが始まるのだが、カメラは2人の周りをグルグル回っている。

そして、やおらまた左右に2分割された画面がひとりずつ少女を捉え、少しカメラが動いて境界線が消えると、いつのまにか1つになった画面に2人の少女が映っている。

で、今度は1ショットになり、よくある手法だがズームインとドリーバックを組合せて人物の大きさを変えずに背景を大きくする(Vertigo Effect と言うらしい。なるほど)

うーむ、冒頭からこれは、ちょっと凝り過ぎではないか、と思ったのだが、8年前に書いた『ストロベリーショートケイクス』の映画評を読み返してみると、「冒頭のシーンでの凝りまくったカメラワークに度肝を抜かれるが、その後は割合おとなしい」と書いてある。

初めに脅かすのがこの監督のスタイルなのかもしれない(笑)

しかし、凝り過ぎは画だけではない。生身の人間が言うには幾分気取りすぎのような台詞も少なくなく、ちょっと耳障りである。

ここでもやや力が入り過ぎなのは、脚本を担当している朝西真砂にとって、この映画が本格デビューとなるからなのかもしれない。

僕はあまり読まない分野なので知らなかったのだが、辻村深月による同名の原作小説は随分有名な作品らしい。ただ、不思議なのは、この作品には“ミステリー”という語が冠してある。

この映画を観る限り、決してミステリーではない。そこが見ながらずっと不思議だったのだが、なぜそうなったかについてはパンフレットのインタビューで原作者が少し説明している。

多分監督は、この小説のトリック以外の部分に惹かれたのだと思う。それは恐らく、この映画の全面に溢れているヒリヒリするような肌触りなのだろう。

『ストロベリーショートケイクス』と同じく、痛々しいまでの、人間の弱みや嫌らしさを描いてある。これこそが矢崎監督の、そして、他の人には却々ここまで真似のできない作風なのだと思う。

舞台は山梨。高間響子(水川あさみ、高校時代は古泉葵)はクラスの人気者、と言うよりも、クラスに君臨する存在だった。皆が響子を慕い、響子の顔色を伺い、響子の提案を受け入れた。

そこに同じ響きの名前を持つ同級生・鈴原今日子(木村文乃、高校時代は吉田まどか)が現れる。響子は機先を制するように、「鈴原」の「鈴」から取って、今日子に「リン子」というアダ名をつける。

映画の中で何ら説明はないが、これは私以外のキョウコは認めないという意思表示であり、映画が始まって最初に出て来る怖いシーンである。

だが、今日子は響子に媚びを売らない。響子がいじめた少女をかばう。やがて、響子の彼氏まで今日子に興味を持ち始める。

卒業後の現在のシーンと、カットバックした高校時代が錯綜するのだが、現在のシーンでは響子は山梨のローカル放送局の冴えないお天気キャスター兼ラジオのDJ、今日子は売れっ子の女優「キョウコ」になっている。

そして、同窓会のシーンでは「キョウコ」はクラスメートの憧れの存在であり、響子は疎まれる存在である。そこまでに何があったのか?──それがミステリといえばミステリではある。だが、その謎解きがメインの映画ではない。

ともかく人間の弱みみたいなものを描くのが巧い監督である。どの登場人物も「良い/悪い」がはっきりした形では描かない。そういう風に簡単に言い切れないのが人間なのである。

この2人以外の主要な登場人物である、同じく同級生で今は銀行員の島津健太(三浦貴大、高校時代は大石悠馬)と、東京のファッション・メーカーに務める水上由希(森カンナ、高校時代は山谷花純)も例外ではなく、惨めなところ、弱い面、嫌なところ、残酷な面を剥き出しに描かれる。

僕は水川あさみという女優の魅力が今イチよく解らないということもあるのだが、この映画で一番目立ったのはこの2人の脇役を演じた4人の役者たちではなかったかと思う。特に三浦貴大と森カンナが素晴らしかった。

原作者も監督も山梨出身で、山梨放送の開局60周年記念映画と聞いて、なんだか急に矮小な企画のように見えてきたのだが、いかにもそういう狭苦しい世界にこういう息苦しい高校時代がありそうな気がする。

そういう意味で人間はとても鋭く描けているのだが、ただ、ストーリーの作り方としては、蒔いた種を刈り取らないままのところもあり、ややまとまりに欠ける気がした。

だから、余韻というよりも、「それで終わり?」感のほうが強く出てしまったのではないだろうか?

かつての女王・響子と今のくすんだ響子のコントラストを描こうとするのは解るのだが、この現在と過去があまりに繋がらない感じがする。それを繋げるための何か強烈なシーンを持ってきて再構成する必要があったのではないだろうか?

それから、2人のキョウコのやりとりに、もう一歩踏み込んだ台詞があれば良かったような気もする。

ちょっと惜しい作品だった。

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