『英国一家、日本を食べる』(その2)
【9月12日追記】 訳書を初めて読んだので、寺西のぶ子さんにメールで連絡を取った。彼女が結婚退職してから初めてのことだ(その辺りの経緯についてはここをお読み下さい)。
返事はすぐには来なかった。その間に、僕のブログの自分の訳書に関するところだけでなく、他の記事も結構読んでくれたようだ。
一緒に渋谷界隈を歩いたことは憶えていてくれた。「年間に本を100冊読む人?」という問いについては憶えていないと言う。まあ仕方がないよね。何十年も前の話だもの。
で、僕が書いたことに対して、彼女がひとつだけ「誤解されているかも」と思ったのは、僕が「良い原文に当たって本当に良かったね」と書いたところだと言う。
なんとなれば、彼女はたまたまラッキーなことに誰かから「この本を訳してみれば?」と持ちかけられたのではなく、「これまでずっと、自分から原書を探しに行って、出版社に紹介するというスタイルでやってき」たのだそうである。
僕は別にそういうところを意識して書いたのではなく、労せずしてこの原書に当たったのであれ、艱難辛苦の末にこの原書を掘り出したのであれ、いずれにしても良い原作と出会えたのは幸運だと言いたかったのだが、ま、彼女がそんな注釈をつけたくなる気持ちは理解できる。
それはそれでまた立派なことである。そして、「なんかいつも変な本ばかり翻訳してる」と思っていたけど、なんだ、そういうことだったのか!という驚きと納得があった。
「変な本」という表現を見て、僕が彼女を馬鹿にしていると思われる方もいるだろうから敢えて書いておくと、変な本を訳す変な奴のほうが僕としては親近感が湧くのである。つまり、それは褒め言葉である。
もちろん、必ずしも彼女の趣味が変であるのではなく、権利フリーの原書としては、あまり誰も手をつけない、一風変わった作品しか残っていなかったのかもしれない。
しかし、そこに目をつけるところがやはり変わった奴といえば変わった奴である(何度も書くが、これは親愛の情の表明であるw)。
彼女がどんな風にして、面白くてかつ翻訳権を押えられていない作品を見つけ出してきたかについては、ここに詳しく書いてある。
いい仕事してるよね。そして、いい人生送ってるよね。あらためて僕は彼女を祝福したくなる。
表参道から原宿まで彼女と一緒に歩いた時、どうして僕は恋に堕ちなかったのだろう? むやみやたらと恋してしまうことばかりが若気の至りではなく、そんな風に恋するチャンスを逃してしまうのも、ある種の若気の至りであったのかもしれない(笑)。
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