Huffington Post から
【8月25日特記】 今日ハフポストで良い記事を読んだ。年寄りが書いていたとしたら不思議はないのだが、27歳という若い人の筆によるものであるところに感じ入った。
確かに、話の腰を折って、いま何の話をしているのかを相手に問いたくなることがある。
長い文章なので、飽きたら途中で読みやめても良い。前半だけでも見事にポイントを突いた指摘がある。
その前半部分から少し抜書きしてみよう。
「現状分析をしているのか、それとも理想や目標について話しているのか」
この部分を見誤ると、議論が噛み合わなくなる。ダメな議論になってしまう。
「政治家の人材不足が深刻だ」という現状分析に対して、「優秀な政治家が必要だ」と反論されても、私は「はいそうですね」としか答えられない。というか、それは反論ではない。
現状分析に対して理想をぶつけても、それは反論にはならない。現状分析に対しては、「その分析は間違っている」という方法でしか反論できない。つまり「人材不足などではない、優秀な人ばかりだ」と主張する以外に、反論の方法はない。「雨が降っている」という現状分析に対して、「晴れているほうがいい」という理想をぶつけても無意味なのと同じだ。雨天のときに必要なのは、「雨など降っていない」という現実逃避ではなく、傘である。
そう、長いことホームページやブログをやっている方なら、ちょっと面倒臭い人から議論をふっかけられたりしたことが一度や二度はおありだと思うのだが、そういう人の中にはまさに上のようなことを見誤っている人がいる。見誤ってますよ、と指摘すると激高するばかりで、どこまでも見誤ったままの人がいる。
この著者の言うように、現実を書いているのか理想を説いているのかの区別がつかない人には何を話してもまともな議論にはならないのである。
さらに、僕がここに書き足すなら、「現実」を「現象」と「本質」に分けておきたい。いくら現実にそうであっても表層だけを見ていては本質は掴めない。
安いものが売れるのは、必ずしも人が安いものを欲するからとは限らない。もっと高いものがほしいのに、買えないから仕方なく安いもので代用しているのかもしれない。
もちろん、単に安ければ良いというものもある。それは、消費財なのか耐久財なのか、いやもっと具体的にそれが何なのかということにもよるし、買う人の環境や境遇にもよるだろう。
そこを見極めるのが「分析」である。
そして、現実の分析を一旦終えてみて、そこで漸く「では、どうするべきか」が自分なりに考えられるようになる。
あと、最近の若い人に多いのは文章全体を捉えることができずに、一部分に対して反論を加えてしまう(むしろ「反感をぶつけてしまう」と言うべきか?)ことだ。
先日驚いたのは、twitter での例だが、ある人が「何でもできる人よりも、わからない、できない経験をした人のほうが良い教師になる」と書いたことに対して、「わからないまま教師になったような奴に教えてほしくない」と噛みついている人がいたことだ。
そう、すぐに噛み付く性癖もよく分からない。
あるいは今回引用した文章に対する反論で想定されるのは、「内田樹なんかを信望している奴はクソ野郎だ」というタイプのものである。これは反論と言えるものではなく、ただの罵倒である。
著者はこの文章では確かに内田樹を褒めている。ただし、そのことはこの文章の論旨と直接関係はない。自分の理論を展開するための材料として内田の文章を引いているに過ぎない。引用した内田の文章の結論が正しいか正しくないかは、ここではメインのテーマにはならないのである。
でも、内田樹嫌いの人は、内田樹という文字を見ただけで噛み付いてくることがある(もちろん、全員ではなく、中にまれにそういう人がいるという意味だが)。
それから「何が何でも正義は押し通すべきだ」と考えている人がいるのも何だか馴染めない。
まず、その単純さにげっそりするのだが、それよりも「果たして自分は正義なのだろうか?」という根源的な疑問を持たないのが不思議なのである。
「僕は果たして正義なのだろうか? ひょっとしたら、自分でそう思っているだけで、とんでもない勘違いをしているのだとしたらどうしよう?」
そういう不安に襲われないのだろうか?
僕は人生不安だらけである。でも、そういう不安が新たな分析の原動力になると思っている。
僕は常々、日本の義務教育がもっと力を入れるべきなのは論理的思考力の育成だと思っている。そんな中で、若い人の中にもこうやってしっかりと論理性を身につけている人がいるのは心強いことだと思った。
今回も不安に駆られながら、とりあえず書いてみた。
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