『テレビという記憶』萩原滋・編(書評)
【7月21日特記】 読んでいてそれほど面白い本ではない。何故ならば、面白おかしく書こうとしていないから。そう、これは紛れもない学術書である。
インターネットの発達によって、テレビを中心としたメディア環境はどう変化しているのかを探るために、編者たちのグループは大々的なアンケートやインタビューを実施してきた。その概略をまとめたのが本書である。
この手のテーマで面白おかしく書こうとしている本は、大概「だからもうテレビはダメだ」という結論に至るか、少しひねくれた著者なら逆に「いや、まだテレビはメディアの中心だ」というような結論に持って行く。
ただ、いずれの結論も、我々この業界で働く者にとっては、それほど新奇でもないし、役にも立たない。テレビの視聴が相対的に減っていることは誰もが身を以て感じていることであり、知りたいのは最終的にそれがもうダメなのか生き残るのかではなく(そんな“予想”を聞いても仕方がない)、それがどういう背景によって、どういうメカニズムで起こっているかということである。
そういう意味で、本書は我々にとっては有用な本である。
定量的なデータと、定性的なインタビューの回答がずらっと並んでいる中で、示唆に富んだ分析もそこかしこにある。例えば、
インターネットを利用する学生ほどラジオを聴き新聞を読むが、逆にテレビを見ない。(143ページ)
大学生たちは自分たちだけの興味関心で番組を選んでいるが、それはテレビの話題を共有できる相手の範囲を狭めることになる。しかし、インターネットを使うことによってその共有相手を確保している。(169ページ)
96世代は自分の好きなことを分かってくれる人とのみ話題を共有したいと思っている。(194ページ)
かつては「テレビでやっていることはみんな見ていて知っているに違いない」という思いがテレビに対する求心力を呼んでいたが、今は「私が見ている番組をみんなは見ていないのかもしれない」という疑いが求心力を奪っている。(220ページ)
などなど(以上は直接の引用ではなく、著者による「まとめ」である)。
この辺りになると非常に説得力が出て来る。それにどう対処してどう変わって行くかを考えることが我々の仕事なのであって、何でも良いから手段を講じて現状のままテレビを生きながらえさせることが仕事なのではない。
そういう考えの人には、この本は薦めないでおく。いや、ひょっとするとこの本は、そういう考えを翻させるためのデータ集になるのかもしれない。
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