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Thursday, July 10, 2014

理不尽を知る

【7月10日特記】 ああ、大人でも間違ったことをするんだ! 親や先生が正しいという保証はどこにもなかったんだ!―そういうことを学ぶのが「成長」ということではないだろうか?

僕は自分の半生を振り返ってみて、そう思うのである。

最初はいつだったろう? 多分小学生の時だ。

母が僕に辛く当たった時に、あ、親でも感情が昂って自分を見失い、こんなにも理不尽なことを言うのだ、としみじみと感じた瞬間をよく覚えている。

もっと前からそういうことは時々あったはずだが、もっと小さい時はただ親の言うことに腹立たしく悔しい思いをしていただけだったのだと思う。

それがいつしか、お、明らかに今回は親の言っていることが論理破綻している、と冷静に判断がつくようになってきたのである。

となると、小さい時は大人たちの言うことを聞いていれば安全だったのが、大人たちも間違うとなると、人生なかなか油断がならない―と、もちろんそんな表現で思ったわけではないが、大体そういうことを思った。

それは、中学でも高校でも大学でも同じだった。会社に入ってからも全く同様で、いろいろ指導してくれたり鞭撻してくれたりした上司や先輩も、決していつも正しいわけではないのだと思い知った。

それをいちいち自分で見極めて行かないと仕事にならないのである。だから、仕事は大変なのである。だから、人生は大変なのである。

ところが、最近の若い人は、どうもそういう感じ方をしないようだ。

「上司なのだから、部下に対しては常に正しくあるべきである」―彼らはそう考えているフシがある。

確かにそれは理想形である。しかし、そうは簡単に行くものか(笑)

本人は一生懸命正しくあるつもりが結果的にできていない、という比較的幸せなケースだけではない。上司や先輩が完全によじれてしまって、部下に言語道断なことを押し付けるなんてことも決して珍しくもない。

それでも、僕らは彼らを上司であり先輩として一応立ててきた。そんなもんである。その一方で、ああ、間違えたこと言ってるわ、と僕らは見極めてきた。

そう見極めるから、下に対してはできるだけ公正でありたいという意識が芽生えるのである。しかし、意識が芽生えたからといって、公正であれるとは限らない。それとこれとは別問題なのである。

そう考えると、結局「べき」の世界から抜け出すことを「成長」と呼ぶのではないかという気もしてきた。

だからと言って、若い人たちに全ての「べき」を捨てろと言う気がないのも確かである。

僕らは自己に「べき」を用いることによって、他者を主語とする「べき」の世界から抜け出せるのではないだろうか?

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Comments

「べき」からの脱皮ですね。
脱皮はみずから「する」ものであって、誰かが代わりにしたり
「させる」ものじゃないですものね。

「べき」を「捨てるべき」は大いなる矛盾。

Posted by: リリカ | Thursday, July 10, 2014 at 18:59

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